向日葵の君へ

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「何を笑っている」  頭上から降ってきた声に、美織ははっと顔を持ち上げた。 「昔の事を思い出していたの」 「思い出に浸るならカッターの刃をしまってからやれ」  ぶっきらぼうな言い方だが仁なりに心配しているのは分かっている。美織は苦笑しつつ、言われた通りに刃をしまう。  どうせ、カッターの役目はこれで終わりだ。長く慌ただしい引越し作業も終えて、運び込まれた段ボールは全て解体してしまった。掃除とは違う疲労感を味わっていると美織の目の前に裏返しになったキャンバスが差し出された。 「……なにこれ?」 「あの作品、完成したから、やる」  あの作品、というのは二十年も未完成だと言っていたやつだろう。あの話をして、まだ半年も経っていないのにもう完成? と思いつつキャンバスを受け取った。 「……これって」  美織は両目を大きく見開いた。  暖かな向日葵が咲いていた。その中央には一枚の、ぼろぼろの紙を眺めている少女が描かれている。真っ赤なほっぺたと緩んだ口元、優しげに下げる目尻から少女がいかにその紙を大切に思っているのかが伝わってきた。  ——これは、かつての美織だ。  まだ幼い頃、仁から初めて似顔絵をもらった日の。 「あれ、捨てられたって言って悲しんでいたから」 「ありがとう……。ずっと描いていたのって、これだったんだ」 「やっと納得の仕上がりになったから……。嫌なら捨てればいい」  キャンバスを取り上げようと仁は手を伸ばした。  美織はキャンバスを抱きしめ、その手を払いのける。 「いらなくない! これ飾ってもいい? 飾りたい! え、額縁どうしようっ」  興奮し、まくしたてると仁は一瞬だけ呆けた表情を浮かべ、徐々に顔を緩ませる。目尻に挿した朱が、仁の感情を明らかにする。 「飾るってどこに?」 「リビングとか? あ、玄関もいいかも!」  なにせ引っ越したばかりの新居にはなにもない。ソファやテーブルは明日配達される予定なので、あるのは仁の仕事道具と美織の化粧用品や服だけだ。 「迷うなぁ」 「……なら、一緒に額縁を見に行くか。金色や黒、木製とか色々あるから、それを見て決めればいい」  珍しく外出を提案する仁に、美織は笑いながら頷いた。
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