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しかし仁の脳裏には安全面や清潔感という概念がないのかもしれない。本人にしてみればキャンバスと向き合いひたすら没頭し、納得いくまで筆を動かし続ける。その空間さえ保てれば、ここよりもオンボロアパートでも、更に言えば電気や水道の通っていない洞窟でも住み続けるに違いない。
呆れる美織を置いて、仁は慣れた足取りで階段を登り、二階へと向かった。美織も後を追いかけるが仁の部屋——その隣の部屋を通り過ぎる際に「あっ」と声を上げた。
「私、仁くんの隣に引っ越そうと思っているから」
先月、ここに暮らしていた青年は彼女と結婚をすると言って引っ越していった。それ以降、この部屋は無人だ。
美織の提案に、仁はぎょっとした表情をすぐさま厳しいものへと変えた。
「駄目だ。もっとセキュリティがしっかりした所にしろよ」
「でも、近くの方が仁くんのお世話をしやすいし、今住んでるとこの更新期間もうすぐ何だよね」
「更新すればいいだろ」
「だから、お世話しにくいの。遠くて。ちょうど、仁くんの隣の人引っ越したからいいかなって」
仁は目尻を吊り上げた。どうやら本気で怒っているようだ。だからといって、美織も今更物件を変えるつもりもない。どうしたものかと考えあぐねていると、先に口を開いたのは仁だった。
「なら俺が引っ越す」
「え?」
唐突な言葉に思考が追いつかない。そんな美織を気にも留めず、仁は部屋へ入ると布団を廊下に投げ捨てた。買い物袋は丁寧にキッチンまで運ぶと床に置く。
そのまま食材を冷蔵庫に仕舞ってくれるので、美織は昼食の準備に取りかかることにした。暑いので簡単にそうめんでいいだろう。変に凝ったの作ると夏バテした仁が食べないし。
「もう少し広いアトリエが欲しい。お前のとこならいい物件も多いだろう。俺がそっちに行くならお前が引っ越す必要はないはずだ」
鍋でお湯を沸かしながら美織は目を丸くさせた。あのものぐさな、生活能力もコミュニケーションもない男が美織のために引っ越しという面倒な作業をするなんて考えもしなかった。
「多いけど、その分家賃も高いからな……」
「今住んでいるとこでいいだろ」
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