儀式

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「大丈夫そうだよ」 再びドアが開き、男が顔を出して言った。 「ほんとですか?」 「うん、多分。中入って確認する?」 男はそう言うと、ドアを大きく押し開けた。 「あ、はい。すみません……お邪魔します」 「洗面所だろ?」 「はい。あの、洗濯機の……」 「ああ、うち洗濯機置いてないんだ。すぐそばにコインランドリーあるし」 「そうなんですね」と返しながら、結月は注意深く天井を確認したが、特に問題はなさそうに思えた。壁や床を触ってみても濡れてはいない。 「大丈夫そうだろ?」 「そうみたいですね、よかった。あの……もしかして、まだ引っ越してきたばかりですか?」 洗面所を出た結月は辺りを見回しながら尋ねた。 「いや、そうでもないよ。何で?」 「男性の部屋にしてはすっきりしてるから、まだ荷解きしてないのかなって」 「ああ……あんまりごちゃごちゃと物を置くのが好きじゃないんだ。敢えて言うなら『シンプリスト』ってやつかな」 「へえ……」 シンプリスト――いい響きだ。 「同じ間取りだと思うけど、中も見る?」 「え? いいんですか?」 「どうぞ」 そう言われ、奥へ進む。 「わあ」 結月は思わず感嘆の声を漏らした。 物があまりないという感じではなく、モノトーンで統一されたスッキリとした部屋だった。仕事なのか趣味なのか、カメラがいくつか並べられていて、それが部屋の雰囲気とマッチしていて絵になる。彼が撮影したものなのか、引き伸ばされたモノクロの風景写真が壁に飾られていた。 帰宅したばかりだというのに部屋はきちんと整理されていて、一瞬にして彼の好きな物、考え方、ライフスタイルまでを見たような気がした。 「素敵ですね」 結月は心地よい空間の中で、無意識に深呼吸している自分に気付いた。漏水の問題が解決したことで不安が解消され、心も軽くなっていた。 視線を感じて振り向くと、男の視線が絡んで、結月ははっと息を呑んだ。 よくよく考えると、見ず知らずの男の部屋に女が一人で上がり込むなんて警戒心がなさすぎる。 そんな結月の心を読んだのか、男が促すように言った。 「結月ちゃん、だっけ?」 「あ、はい」 「まだ部屋の片付けがあるんじゃない?」 尋ねられた結月は「あっ」と声を上げ、わざとらしいほどの大袈裟なリアクションをした。 「俺、だいたいいつもこの時間には帰ってるから、良かったらまた遊びにきて」 「えっ、ああ、はい……」 結月は曖昧な返事をした。 何となく今は「彼氏がいますから」ときっぱりと断る空気感ではなかった、というのは建前で、彼に興味を持った、というのが本音だった。 「夜分にお騒がせしてすみませんでした」 「気にしないで。あ、名前言ってなかったね。俺、虎仁郎(こじろう)っていうんだ」 「虎仁郎さん……」 結月は呟くように口にした。 「よろしくね。じゃあ、また」 「はい、おやすみなさい」 部屋に戻った結月は念のために管理会社に連絡をいれた。 電話に出た担当者は「気を付けてくださいね」と言った後、「実は……」と、洗濯機の漏水は一番よくある事で、以前にも数回同じようなことがあったのを機に水回りの防水加工工事をした、と付け加えた。そのおかげで階下への被害がなかったという訳だ。 家賃が少し高めで迷った物件だったが、高い物件にはそれなりの理由があるのかもしれない。
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