Ⅲ.空

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「どうした? 小さな子どもにでもなった気がするか?」  むう、と口を曲げていると、目の前を猛禽が滑空するのが見えた。獲物の小鳥を見つけたのだろう、まっすぐに降りていく。思わず体が動くと、皇帝が大きな手に力を込めた。 「其方は阿呆か! 危ないと言っただろうが!」 「だって! 鳥が見えません。陛下、もう少し前に!」  皇帝は呆れながら少しだけ前に進んでくれた。それ以上眼下を覗きこむことは許されなかったので、鳥が見えなくなった後は、しばらく二人で空を眺めた。最近、こんなにゆっくりと空を見たことはない。ああ、と気がついて振り返った。 「陛下、ありがとうございます。背が暖かくて、いつもより長く空が見られました」  夜空の瞳が驚いたように見開かれ、わずかに眉が寄る。 「……全く、其方は」  目の前が暗くなったかと思うと、皇帝の顔が近づく。ふわりと重なった唇は柔らかく、瞬きをする間に離れてしまった。  ――今の。 「冷えてきたな。もう下りるぞ」  皇帝は私を腕の中に抱きしめて扉に向かった。明るい場所から階段を見れば、暗さに慣れずよく見えない。  ……確かに今、唇が触れた。  触れ合った場所は僅かに熱を持ち、胸の奥までが微かに疼く。私たちは黙って螺旋階段を下りた。  次の日から、皇帝は度々私の部屋を訪れるようになった。さっと顔を出すだけのこともあれば、お茶を一緒に飲む日もある。土産だと持ってきてくれた菓子を喜んだら、いつも甘い菓子が届くようになった。  ある時は唐突に、他に私の部屋を訪れる者はいないのかと聞いてくる。教師たちか侍従長しかいないと言ったら、何やら考え込んでいた。数日後、何人かの教師が入れ替わりノイエがため息をついていた。 「まあね、熟練の先生方だけになったと思えばいいですかね。折角、神子様のお話し相手になるような若者も選んだのに……」  そういえば、年が近い教師たちが皆いなくなってしまったなと、私は一人、首を傾げた。  季節が一つ変わろうとする頃、お茶を飲んでいた皇帝が静かに言った。 「皇宮に戻る」  長椅子に座っていた私は、言われた意味がわからず首を傾げた。  ――戻る? 皇宮?  皇帝は私の疑問を読み取って微笑んだ。  エルドアートは大陸統一を目指している。ここは西方諸国との境に当たる出城の一つだ。ここから遥か東に、エルドアートの皇都がある。皇宮には自分がいない間、代わりを務める者がいる。  やはり、そうか。ここには騎士や兵士ばかりで、富が集まるという華やかな都とは違うと思っていた。遥か東に、皇帝の本来の住まいがあるのか。  皇帝にも身代わりがいる。そう思うと、胸がチクリと痛んだ。自分だって本当の神子ではない。弟の身代わりに差し出された身ではないか。 うつむいていると、皇帝はすぐ隣に座った。そっとこちらを窺うように見て、私の髪を指ですくう。 「其方は……余が側にいないと寂しいか?」  少し考えて、こくりと頷いた。肩を抱き寄せられ、額に口づけが降ってくる。その仕草はひどく優しくて、目の奥が熱くなる。
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