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1 青の回想
連休中の喫茶店は、にぎやかだ。
しかし黒のスーツを着用した男は、ひとり静かに座っていた。
机を眺める表情は硬く、外の曇り空も合わさって暗い。口は縫いとめたように閉じられ、コーヒーを飲むときでさえ、ほとんど動かなかった。
カランカランとドアベルが鳴り、少しして男の前に彼が現れた。彼の名前は春口功といった。
「待った?」
「……いや、時間通り」
功は男の向かい側に座る。それから店員を呼び、モーニングセットを注文した。店員の姿が消えた後、功は男に向き直る。
「久しぶりだね。卒業以来?」
「かもな」
「元気にしてた?」
「ぼちぼち。功は?」
「僕も、まぁまぁかな」
功は、青いトレーナーの袖をまくり、乱れた前髪をかきあげた。冷や水を飲み、男の伏し目がちにコーヒーを飲む仕草をまじまじと見た。
突然呼び出して、だんまりか。
功は、つい冷や水をたたきつけるように置いてしまい、その音にびっくりした男と目が合った。
「あ、ごめん……。話があるって言ってたけど、僕からも、いい?」
「功から?」
「うん。店長候補になるよ」
男はマグカップに伸ばしかけた手を止め、引っ込めた。
「へぇ……。おめでとう。学生の頃から言ってた夢がかなうんだな」
「ちょっと前進、かな。いつか県民全員が求めに訪れるような、本でいっぱいの空間を作りたいんだ」
功が目を輝かせていると、「お待たせしました」とモーニングセットが届けられた。
テーブルに置かれた編みかごから、食パンの香ばしい匂いが広がる。
「見ててよ、すごい本屋にしてみせるから」
功はスプーンを持って、小皿に入った小倉あんを食パンにのせていく。
甘い香りが男のすぐそばで漂った。
けれども、男の手もとにあるのはコーヒーだった。甘みを拒絶するように苦を放ち、秘密の告白を促すように揺れている。
「悪い、無理だ」
「どうして」
「出向。東京に行く」
男が淡々と答える。
功は今にも泣きそうな顔で男のほうをのぞいた。
「どのくらいで戻ってくるの?」
「わからん。前の先輩は三年で戻ってきたらしいが、ひとつ前の先輩は一年で出向先に乗り換えたんだと」
「そっ、か」
功は食パンを持ったまま、うつむいた。小倉あんが崩れ、ぽそりと食パンから小皿へ落下した。
「わざわざ来てもらって悪かったな」
功は首を横に振る。
「ううん、直接聞けてよかった。でも寂しくなるよ。常連になってほしかったのに」
「週一で通ってるんだから、すでに常連だろう」
「そうなんだけどね。僕の夢を笑わず、諭さず聞いてくれた君に、いつまでも見守っていてほしかった」
功の瞳は、まっすぐだった。近寄れば心の底まで透けて見えるだろうと、男は思った。
「じゃあ俺が帰ってくるまで続けておいてくれよ、店長候補」
「嫌だよ! そのときは店長がいい!」
「そうだな」
男が微笑むと、彼も満足げに食パンをほおばった。
「帰りに本屋寄っていってよ。君におすすめの本があるんだ」
――男は本の落ちる音で目が覚めた。
引っ越し作業の途中、彼の本屋で買った本を発見し、眺めていたところ、うたた寝をしていたのだった。
あれから、五年。
男は携帯を開き、彼に連絡する。
しばらくして住所とメッセージが届いた。
『会うならここで』
男は携帯を閉じ、天井を見つめる。自然と笑みがこぼれた。
よかった。あいつ、やめてない。
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