2.惜別の日

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 兄と友人は大喧嘩になった。冗談じゃない、弟に何をさせるつもりだと、兄は長年の友人を怒鳴りつけた。  兄の友人は、ヘルマン家とは違い裕福な貴族の出だった。王族との繋がりも深く、うっかり僕の魅了の力を口にしてしまったらしい。余程断りにくい相手なのか、一度会うだけでいいと頼み込まれた。兄はお前との仲もこれまでだと絶縁を言い渡したが、僕は報酬の話が気になった。これで母の借金を返せる、お金のことで兄が悩むこともなくなるのだと思った。  それに、長いこと離れていたシセラのことが気になっていた。母の墓がある地を離れないと言った父はどうしているだろうか。  僕は王族の使者に会った。使者は、大層丁寧な話しぶりだった。 「シセラの王太子が悩みを抱えておられる。会って話を聞き、御心を楽にしてやってほしい。人見知りな方だから、簡単には御心を開かないだろう。魅了魔法でまずは親しくなってほしい」  そんなことでいいのか。僕は言われるがままにシセラに帰り、王太子に会った。夜会に参加しろと言われて驚いたが、服も香水も使者が用意してくれた。初めて会った王太子は複雑な心を抱えていたが、まっすぐな心の持ち主だとも思った。  王太子の悩みの相手が既知の人間だと知った時は、頭をがんと殴られたような衝撃だった。王族の使う奥庭にやってきた彼は、はっとするほどの美しさだ。どこかで聞いた名だとしか思っていなかったが、会った途端、幼い頃の面影が蘇る。青ざめて震える姿に見惚れていると、視線が合った。彼の瞳には、目の前のことに対する悲しみしかなかった。  ――彼は、僕のことなど何も覚えていない。  当たり前のことに打ちのめされた。幼い子どもの頃に、たった一度会ったことがあるだけだ。自分だって、あの日の出来事はずっと忘れていたのに。  その後も何度も王太子の元に通い、連れ立って過ごすことが多くなった。奥庭で食事をしたり、買い物に付き合ったりと日に日に距離が近くなる。いつでも共にいる相手など兄しかいなかったので不思議な気持ちだった。シセラの宮廷の作法はよくわからなかったが、いつの間にか他国で長年留学生活をした為に疎いことになっている。そんな余裕など、どこにもなかったのに。  王族の使者は度々僕の元に訪れて、細かな注文をつけるようになった。もっと気ままにふるまえ、王太子に接触しろと。言われるままにするほど、兄に送金される額が増えていく。兄からはもう十分だ、早く戻って来いと手紙が届いた。  僕は兄の言う通りにシセラを去ることにした。兄や王太子の瞳と同じ色だと選んだピアスをどうしようかと思った。そのまま捨てようと思ったが、ふと、美しい彼の元に送ってみたくなった。  あの時、僕の中には確かに悪意があったのだ。  何も知らず美しいままに生きている彼。苦労知らずで誰からも愛されている彼。そして、僕のことなど記憶の片隅にもない彼。   そんな彼の中に、一つの染みとなって残りたかった。ただ同時に、名前も書かずに送り付けたものが本当に彼の手に渡るとは思えずにいた。彼が手にする前に廃棄されてしまう可能性が高いだろう。  僕はピアスを送った後、兄にじきに戻ると手紙を書いた。自分が他人に書かれた物語の駒になっており、もう逃げ出すことなどできないのだと思いもせずに。そうして断罪の日を迎えたのだ。
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