水たまりに沈む

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水たまりに沈む

 スマートフォンを持つことをやめた。  具体的な月日はもう覚えていないが、元々持っていたスマホの画面が割れた瞬間に「もういいや」と漠然と思ったことだけは覚えている。  画面に映し出される関係値。作り物の自慢の数々。反応しなければいけない、という恐怖心。  もう、どうでもいい。  データとして蓄積されていたアドレスの数々と、通話アプリに登録されているアカウントの全てを手放すことに決めた。  友だちが増えると、そのぶん自分自身に割く時間が減る。  人間関係が複雑になり、損な役回りを押し付けられることも多々あった。 「疲れた」と一言でくくるにはもったいないほど複雑に絡み合った黒い感情があるのだが、それらすべてを手っ取り早く葬り去るために、私はスマホを捨てることにしたのだ。  最初、スマホを店に持って行ったが「データの引越し先は」と聞かれて、面倒になって立ち去った。  データなんていらない。消えてなくなればいいのに。そう伝えると怪訝な顔をされたので、私のほうから会話を諦めた。  スマホを家の風呂に沈めると、水面に私が写った。水面の私は、じっと私を見つめていた。  ――スマホを介さなくても、私を見てくれる人がいる。  ”彼女”の目を見た瞬間、私の新しい、そうして唯一無二の友だちだ、と思ったことは、今もまだ鮮明に覚えている。  私の友だちは彼女だけとなり、彼女の友だちも、私だけだ。  私の意見に完全に同調してくれる。私の好みにあわせてくれるし、一言も文句も言わない。  どこに行くにも、何を食べるにしても、私のことを第一に考えてくれる、私だけの特別な友だち。  ウィンドウショッピングのガラスに写る彼女はいつ見てもニコニコしていて気分がいいし、レストランのパウダールームの鏡に写る彼女は私好みの服を着ている。  私の好きじゃないファッションやメイクをし、私の知らない男の悪口でわけのわからないマウントを取るような友だちは、私の前から消え失せたのだ。  もちろん、スマホを失ったことで不便は感じた。  だが、彼女がいれば、不便もひとつの楽しみとしてとらえることが出来た。  他人は「いつもひとり」の私を憐れんだ目で見ていたが、それでいい。  私はそういう生きかたを望んだし、心の底から楽しんでいるのだから。  彼女もきっと、私と共に生きることに楽しさを感じてくれているはずだ、と思っていた。  ある日のことだ。  母から手紙が届いた。  雨で濡れた郵便ポストから手紙を取り出した私は、その場で封筒を開けた。  盆や正月以外では連絡を取ろうとしない母がわざわざ手紙を送ってきたということは、何か事情があるに違いない。  そう思って急いで封筒の中身を確認したのだが、入っていたのは小さな紙切れのみだった。  あなたのことはもう娘と思いません。  これからはあなたの好きなように生きてください。  もうあなたと関りは持ちませんから、安心してください。  見紛うことなき、母の字だった。  何事かと確認しようにも、スマホがない。  急いで近くの古い商店に行き、公衆電話をかけたが、繋がらなかった。  実家の電話番号は既に使用されておらず、受話器からは無機質な自動音声が繰り返されるだけ。  次に連絡を取ろうと思ったのは親戚だったが、電話番号を覚えていなかった。  仲の良かった幼馴染なら実家の状況を教えてくれるかもしれない、と思い受話器を持つが、その電話番号も最後のひとケタが思い出せずに終わってしまう。  チン……と受話器を置く虚しい音が、電話ボックス内に響いた。  私はそこで、しばし考える。  こうなったら、実家に直接行って確かめるしかない。  急いで新幹線に乗り、バスに乗り、タクシーを捕まえた。  交通費を一切ケチらずに最短で実家に辿り着いたが……そこで待ち受けていたのは「売地」という派手で大きな看板と、既に更地となっている土地だけだった。  誰もいなくて、途方に暮れる。  都会から離れた田舎ゆえ、街の明かりも、外灯すらもなく、星だけがやけに明るく輝いている。  疲れ切ってその場でしゃがみ込むと、すぐ近くに大きな水たまりがあることに気が付いた。  その水たまりをぼうっと見つめていると、星の光で逆光となっている私の影が、大きく動いた。  けれど、影は私――つまり、”彼女”しか写っていない。それ以外は何も、誰も写りこんではいない。  私は息をのんだ。  彼女が動いているのだ。私の意思に反して。自分自身の意思で。  彼女はポケットからスマホを取り出し、耳に当てた。 「あ、お母さん? もう……ちょっと連絡が取らなかったからって、拗ねて引越し先を教えないなんて、子どもすぎじゃない? 今から新居、遊びに行っていい? 場所はミキから聞いてるからわかるよ。おばさん経由でね。スマホのアドレス消えてから大変だったんだから。人づてに連絡先聞いて回ったりさぁ……。――ああ、うん。今帰って来てるんだよね。急ぎ過ぎて手土産買うの忘れちゃったけど……あはは」  ミキ、というのは幼馴染の名前だ。どうして彼女が知っているのだろうか。  それに、彼女は見たことのないスマホを持っている。……なぜ?  彼女は、通話先と思われる母と楽しげに話している。 「あ、今? ううん、ひとりじゃないよ。なんか、都合のいい友だち? みたいなのと一緒にいるんだけど、別にいいの。私と一緒にいれれば満足するみたいだから。文句も言わないし」  そう言って彼女は、電話を切った。  彼女は私をじっとのぞき込み「世界をまたぐ引越しって、結構大変なのね」と言った。 「私、電波のあるあなたの世界に興味があったの。だから、世界を交換しちゃった。あなたにバレないようにね」  つまり私も、知らぬ間に彼女の世界に引っ越してしまったことになる、のだろうか。  聞くと、彼女は「そのとおり!」と上機嫌に言い、スマホをポケットに入れた。 「あなたは私がいれば満足なんでしょ? なら問題ないよね。私から声がかかるのを、電波のないソッチの世界で待ってなよ。前の私みたいにさ」  通りすがりの車のヘッドライトが彼女に当たる。彼女はにっこりと笑っていた。  そうしてそのまま、静かに水たまりから去っていった。  水たまりにはもう誰も写っていない。  私は彼女さえいれば楽しく人生を過ごすことが出来ていたが、彼女は満足しなかったのだろうか。  ……いや、その考えは間違っていたのかもしれない。先程の彼女の言葉を思い出して、考える。  彼女のことを、自分を尊重してくれる都合のいい存在だと思っていたからこそ、彼女を友だちにしていたのかもしれない。  ――彼女の気も知らないで。  私は彼女に対し、ひどい扱いをしていたわけだ。だから彼女も私を”切った”。  私がスマホを捨てたのと同様に。  ”引越し先”の世界は元いた私の世界とそう違いはないけれど、私は彼女のように、捨てた縁を繋ぎなおす度胸も知恵もない。  早く、彼女から声がかからないかな。  遊びに誘ってくれたら、彼女好みの服を着て、彼女好みの笑顔を向けてあげられるのに。  私は今もまだ、水たまりの前でしゃがみ込んでいる。
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