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佐伯 龍太郎
まるでブルーハワイのようだ。佐伯龍太郎は自分の人生のことをそのように感じることがあった。
味や見てくれは悪くないのだが、それが果たして何でどのような味なのか誰も説明できない。実態を伴わない虚構だけの存在。
ブルーハワイ(昔はハワイアンブルーと呼んでいた気がする)は龍太郎が幼いころに通っていた水泳教室の帰りに、いつも母が買い与えてくれたアイスクリームの味でもあった。
思えばあの頃が、自分の人生において最も幸せな時期だったかもしれない。そんな理由もあって、自分のことをわざわざブルーハワイに例えたのかもしれなかった。
加賀屋町役場の前にある駐車場で、龍太郎は車のハンドルを握ったままそんなことを考えていた。
無駄にセンチメンタルなことを考えるのは腹が空きすぎているからかもしれなかった。二日前から何も食べておらず、車のガソリンはエンプティランプが点灯。電気は止められ所持金は残り二二〇円しか残っていなかった。
龍太郎が自宅アパートから十分ほどかけて役場までやってくるのはこれが初めてではなかった。
生活保護の申請をするしか生き延びる術はないように思えたが、家族に連絡がいくことや働いていないことについて年下の公務員から説教されることを恐れてなかなか役場内に足を踏み入れることはできなかった。
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
龍太郎は思い返すが、明確なきっかけがあるようには思えなかった。だが、むしろなんのきっかけがなくとも、どのようなルートを通っても自分の人生はこのような状況に収束したのではないかという気がした。
親一一特に母親の公子が教育熱心であり高校大学と地元ではトップの公立校に進学。元々の性格のせいか友人には恵まれなかったが、学生生活は特に不自由することはなかった。
しかし就職が上手くいかなかった。
地元の県庁への就職を希望するも二年連続で面接で落とされ、諦めて入った地元の銀行ではひどいパワハラを受けて一年半で退職した。
公子は龍太郎を心配し、励ましてくれたが、龍太郎がすぐに再就職しないのを見て態度を一変させた。
「なんのために教育にあれだけお金をかけたのか」「周りの皆にできる当たり前のことがお前にだけできない」そのような言葉で責められ、龍太郎はレールを外れた自分の存在に価値がないことを知った。
同じ時期に弟である虎太郎が中央省庁へ就職することが決まり、公子の興味は完全に虎太郎に向き、同居していた無職の龍太郎は腫れ物扱いとなった。
「兄ちゃんは俺より全然出来がいいからさ、ちょっと休めばまた復活するよ」
そんな弟の言葉にも、龍太郎はプライドを傷つけられ苦しめられた。
龍太郎は少ない貯金をはたいて隣町の加賀屋町にアパートを借りてアルバイトを探した。どこでも良かったが、加賀屋町は龍太郎が住んでいた佐米市よりアパートの賃貸料が安く、働き口も探せばないことはなかった。母のいる家がある佐米市でなければどこでも良かった。
アルバイト生活が数年続いた。家族と連絡は取らなかった。次に連絡するときは成功して見返してやるときだと心に決めていた。
昔から文章を書くのが好きだった龍太郎はアルバイトをする傍ら小説を書いた。単純に趣味として小説を書くのが好きだということもあったが、小説家としてデビューできたら公子や虎太郎は自分を見直すだろうという思いもあった。
だがいくら書いても小説がどこかの賞に入選することはなかった。ただ、時折一次選考や二次選考を通過することがあるので、チャンスはあると思って筆を折ることができなかった。
まともな社会経験もないまま、気付けば年齢は三十歳になろうとしていた。弟の虎太郎との差も大きく離れてしまったに違いない。
一発逆転を賭けて、龍太郎はアルバイトを辞め、執筆に専念することに決めた。次こそは上手くいく、そんな確信があった。
ただ、先日発表された結果はあえなく一次選考で落選。その時点で龍太郎に残されているものはなにもなかった。家族も、友人も、お金も。ただわずかに残ったプライドが両親に頭を下げて家に帰ることを留まらせた。
そうして龍太郎は連日、生活保護の申請をするために役場に来ては引き返すということを繰り返していた。アルバイトも探してはいるが、給料が入るまで自分が生きていられるとは思えなかった。
ただ一一龍太郎はコインケースの中の二二〇円を眺めた。そのような生活ももう終わらせる必要がありそうだった。
龍太郎は車を降りて、三階建ての古びた役場へと向かった。
そのとき、先に役場に入っていく名札を首にかけた職員らしき男が目に入った。
公務員のくせにサングラスをかけた、厳しい顔の男だった。
龍太郎はなんの根拠もないにも関わらず、その男を生活保護の窓口担当の男であると確信した。親元に帰れるにも関わらず帰ろうとせず、病気でもないのに働きもしない自分に説教をするであろう男。
やっぱり今日もやめておこうーー。
龍太郎は踵を返し、車に乗るとエンジンをかけた。
そして自分でもなぜそうしようとしたのか分からないが、弟の虎太郎に電話を掛けていた。
都内で公務員として忙しく過ごすはずの虎太郎が平日の昼間に電話に出るはずがない、そう思ったが、虎太郎はわずか二コール目で電話に出た。
「兄ちゃん、久しぶりじゃん。急にどうしたの? ずっと連絡ないから皆心配してたよ」久々に聞く虎太郎の声は、龍太郎にはどこか嬉しそうに聞こえた。
「別に……なんとなく、元気してるかな、って」
龍太郎が似合わないことを言うからか、虎太郎は短く笑った。
「何それ、ただ、そうだな……あんまり元気じゃ、ないかもしれない」
「元気じゃないのか?」
「実は二ヶ月前から鬱で休職してる。婚約も破棄になったし、散々だよ」
「婚約してたのか」知らなかった。それもそのはずで、家族と連絡を取っていない龍太郎は弟の動向をなにも知らなかった。「それは、母さんも心配してるだろうな」
「……母さんには言ってないよ。言ったらきっとガッカリされる」
「そうか、でも、ガッカリしたい人にはさせておけばいいさ」
少し間があった。龍太郎は思ってもいないことを、そして今さら兄貴ぶったことを言う自分が恥ずかしくなった。
「そうだね……、ところで兄ちゃんはどうしてるの? 家には帰ってないんでしょ」
「俺は元気にやってるよ。とりあえず、ちゃんとしてるよ」
「そっか、それなら良かった。兄ちゃんは頭いいのに変に意地っ張りだから心配してたんだよ」
それ以上話すと涙が出そうだったから、龍太郎は挨拶もそこそこに電話を切った。
帰り道、スーパーに寄ってブルーハワイのアイスを探してみたが、見つけることはできなかったので代わりに雪見だいふくを買って車の中で食べた。
そういえば、スーパーでブルーハワイのアイスなんて見たことないかもしれない。最後まで自分らしいな、龍太郎は雪見だいふくの空箱を眺めながらそう思った。
そういえば昔は虫歯ができるからという理由でアイスは雪見だいふくやパピコを買って、虎太郎と二人で分けて食べるよう言われていたはずだ。
ずっと一人で一つ食べたかったはずなのに、今ではどうしようもなくそのなんでもないアイスクリームを誰かと分け合いたかった。
龍太郎は車を発進させると、当てもなく車を走らせた。
その翌月、警察から加賀屋町役場の福祉課に加賀屋町内の山林で身元不明の遺体が見つかったという連絡があった。
引き取り先の分からない遺体は町が火葬に出すことになり、誰からも気づかれないまま福祉課の担当者によって淡々と処理された。
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