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小野 実弥
加賀屋町町長、田島優。無投票で加賀屋町の町長になり現在は一期目。年齢は四十七歳と町長としては若く、七十二歳の副町長とは二十歳以上離れている。元々県庁の職員だったが退職して出身地である加賀屋町の町長となった。
好きな食べ物はおでん。座右の銘は『急がば回れ』。塩顔だが切れ長の鋭い目がチャーミングで町内にも隠れファンが多数。そして私もその一人ーー。
「あんたほんと変わってるよね」
町立加賀屋中学校二年二組に所属する吉田 香織は、クラスメイトである実弥のことをそう評した。
「そうかな?」
「そうに決まってるでしょ。だって普通は推しっていえばキンプリとかBTSとかヒプマイとかそういうのでしょ。それをあんた町長って」
田島が実弥の推しになったのは昨年の夏のことだった。
その日、加賀屋町は年に一度の花火大会の日で、例年通り開会式で町長が挨拶をし、偶然早く現地に着いた美弥は最前列でそれを見ていた。
田島がなにを話していたかは覚えていない。ただ、そのとき三回は自分の目を見て微笑んでくれたと美弥は感じた。それに顔もわりかし好みだった。その瞬間から加賀屋町町長は実弥の推しになった。
バスがやってきたので実弥と香織は一緒に乗り込んだ。
今日は土曜日だが、二人が所属するハンドボール部は休日練習の日になっていた。
「でもさ、普通はライブがあって推しを見に行ったり、CD買って握手会に行ったりするわけじゃん。そういうの楽しみって全くないわけでしょ?」
「そんなことないって。町が主催する講演会とかお祭りに行くとよく挨拶してるし、広報誌とかにもよく写真が載ってるから切り取って部屋の壁に貼ったりして楽しいよ」
「なにそれこわ」
「こわってなによ、いつか町長も一番くじとかになればめちゃくちゃ引くのにな」
「そんなの買うの全国であんただけだよ」
「そうかなー」
二人で笑っているとバスが中学校の前に着いたので、バスを降りて体育館へと向かう。
広い体育館ではないが、土曜日の午前中は全面をハンドボール部が使うことができた。
そもそも県内にハンドボール部を有する中学校が少ないという理由はあれど、加賀屋中学校は県下でも有数のハンドボール強豪校だった。
全国中学校ハンドボール大会も県大会まで順調に勝ち進んでおり、ハンドボール部は数ある部活の中で優遇されている部の一つだった。
「お疲れ様です!」この大会をもって引退が決まっている、先に来て自主練していた先輩たちに挨拶し、二人も練習に参加した。
「小野、最近調子いいみたいじゃん」
練習後、コートを片付けていた実弥はキャプテンの真田に声を掛けられ心の中で飛び上がって喜んだ。
実弥は控えであり三年生が主体のレギュラーメンバーには入っていないが、同じピボットのポジション(相手のディフェンス内に入り込んでポジションを作る役割。攻撃の司令塔にもなる)の笹野が調子を落としており、密かにレギュラー奪取を狙っていたのだった。
そして実弥がレギュラーメンバーに入りたい理由はもうひとつあった。
「表敬訪問?」
「そう、全国大会に出場したチームは役場に表敬訪問して町長から直接お褒めの言葉をもらえる上に一緒に写真を撮れるの」
更衣室で体に消臭スプレーを振りかけながら実弥が言うと、香織は呆れた顔をした。
「そんなの楽しみにしてるのあんただけだよ。普通は面倒くさがって誰も行きたがらないの」
「そんなことないよ。でもこれまで表敬訪問したときは、レギュラーメンバーだけで行ったみたいで……」
「それでメンバーに入るために最近あんなに張り切ってるわけね」
次の瞬間、練習後も残って練習を続けていた笹野が更衣室に入ってきたので二人は黙った。
笹野が着替え終わるまで気まずい時間が続いた。実弥と笹野は今では周囲も認めるライバル関係にあった。
「へらへら調子乗って練習中足引っ張らないでね」
着替えを終えた笹野はそう言い残して更衣室から出ていった。「なにあれ」、「嫌な感じ」、そんなことを言い合いながら実弥と香織は学校をあとにした。実弥がレギュラーメンバーに選ばれたのはその次の週のことだった。
加賀屋中学校はそれからの試合に連勝し、全国大会への出場を決めた。
その全てに美弥は出場し、特に二試合目では効果的に相手のオフェンスをブロックし、逆転勝利に大きく貢献した。それらの試合を香織は精一杯の声援で応援し、笹野は歯痒い表情で見つめていた。
加賀屋町町長である田島はその日、朝から多忙を極めていた。
珍しいことではなかった。住民からは町長がなにをしているか分からないとよく言われるが、実際やらなければいけないことは山のようにあった。
団体の総会に参加し、イベントで挨拶し、その合間に課長に指示を出したり職員がやらかしたミスの報告を聞いたりしてあっという間に時間が過ぎていった。
力を抜けるときは抜かないといけないと、田島は常々思っていた。
スマートフォンでスケジュールを確認すると、五分後に全国大会に出場した加賀屋中学校のハンドボール部の表敬訪問が入っていた。
子供相手なら少しは肩の力が抜けるだろう、田島はそう考え、町長室を出ると、既に中学生と引率の顧問が待っているという応接室へと向かった。
応接室には十四人のハンドボール部のレギュラーメンバーである中学生と、顧問である年配の男性の先生が座って待っていた。ハンドボール部はレギュラーメンバーが十四人いて、そのうちコートでプレーするのは七人ということらしい。メンバーを交代しながら一試合五十分を戦い抜くのだ。
田島が簡単に挨拶をすると、顧問から促され真田というキャプテンが全国大会の結果の報告を行った。
その間、田島は奇妙なことに気が付いた。
全国大会の二回戦で惜しくも敗退したことや試合の詳細は全員に配られていた資料に記載してくれており、皆がその資料に視線を送る中、学生の一人だけが資料でなくじっと自分のことを凝視しているのだった。
ショートカットで目が大きく、たぬきのような印象の可愛らしい少女だった。なにか顔に付いているだろうかと自分の顔に触れるも、どうやらそういうわけではないようだ。
いつの間にか報告が終わっており、田島は慌てて、加賀屋中学校ハンドボール部は加賀屋町の誇りであり、今後も練習に励んでほしい。またこの経験を今後の人生に活かしてほしい、というようなことを話した。
そしてその間も、広報資材となる写真を撮る間も、最後に全員と握手する間も、ずっとその少女からの強い視線を感じていた。
表敬訪問を終えて町長室に戻ってしばらくすると、部屋をノックする音がした。
「はい」
田島が声をかけると、戸を開けて入ってきたのは先ほどのショートカットの少女だった。少女は田島が座っていた机の前まで来ると、震える声で言った。
「あ、あの、良ければサインもらっていいでしょうか」
赤くなった少女の手には色紙が握られていた。思いもよらない要望に、田島は思わず吹き出してしまった。
自分のファンなのだろうか。主婦層からは人気がある方だという自覚はあったが、こんな中学生がそんな訳ないだろう、と思いつつも悪い気はしなかった。
芸能人のようなサインはないが色紙に大きく自分の名前をフルネームで書いてあげた。
「これでいいかな?」
田島が微笑みかけると少女はさらに真っ赤になり、何度も頭を下げて帰っていった。
その後ろ姿を見送っていると、町長室の前に位置する企画課の職員たちがニヤニヤして自分のことを見ていたので、田島は頭を掻いて苦笑した。
ここ数日、実弥は心ここにあらずという状態だった。
ハンドボール部の練習を見学していても、練習風景を見ているようで、実弥は何も見てはいなかった。
全国大会一回戦での激しい接触、転倒、骨折……。あれさえなければ、だがそれはいくら悔やんでもどうしようもないことだった。
交代で入った笹野の活躍により一回戦を辛くも勝利し、わずか二点差で二回戦に敗北したことも、病院に行っていた実弥は後から聞かされた。
そして先日行われた表敬訪問もーー。
思い出すまいと顔を振り、頭を上げると、そこにはここにいるはずのない人の姿があった。
笹野佐子。かつて同じポジションを争うライバルだった三年生である彼女は、もう部活を引退して練習には来ないはずだった。
「先輩、どうしたんですか?」
正直なところ、笹野のことはまだ苦手に思っていた。怪我のことを何か言われるのだろうかと、実弥は身構えた。
「お疲れ。これ、あなたに」
笹野から手渡されたものを見て、実弥は悲鳴をあげた。
「あなた、意外と趣味悪くないかもね」そう言い残して去っていく笹野に、もう苦手意識はなかった。むしろ仲間意識を持ち、彼の魅力について語り明かしたかった。
田島優。表敬訪問のときにもらってくれたのだろう、笹野から受け取った色紙には大きく自分の推しのサインが書かれていた。それは決して達筆とは言えない字で、それが実弥にとってはまた愛おしかった。
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