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花咲き事件 2
「――柿崎部長、来られませんでしたね」
宮寺の運転する車内で、草薙は言った。会議中に顔を見せなかった柿崎に対して、純粋に疑問に思ったことを明かす。
「ああ、出張中だからね。私たちが戻る頃には本部に着いているはずさ」
「僕、お会いしてますかね。あまり見かけたことがない気がして、顔が浮かばなくて」
「なに、おのずと分かるさ」
助手席に座ったまま、草薙はなんとか思い出そうとしていた。なるべく上司の顔は覚えておきたい。縦社会の組織の中で生き残るためには重要なことだと、交番時代の先輩が教えてくれたからだ。
「着いたよ」
Y小学校に着き、草薙たちは車から降りた。白を基調とした建物から、子どもたちの賑やかな声が聞こえる。
「それにしても、向日葵が盗られたこと、よく思い出したね」
玄関を目指しながら、宮寺は言った。
「地図上に描かれた円のお陰ですかね。でも、関係しているかどうかは」
「それを調べるのが私たちの仕事さ」
「そうですね」
ほどなく、受付を終えた草薙たちは校長室に通された。紺色の絨毯のせいか、とても落ち着いた雰囲気だと草薙は感じた。部屋の奥には使い込まれた机の上には数枚の書類と本が置かれ、その手前には客人用のソファが置かれている。家庭用ぐらいの大きさのテレビも完備している。ガラスがはめ込まれた引き戸付きの本棚には、多くの書物が理路整然としていた。観葉植物を置いていない代わりに、窓から見える裏庭には多くの植物が植えられている。種類は分からないが、最近植物を見る機会が少ない草薙にとっては、待っている間も退屈しなかった。
用務員の女性が緑茶を置いていくのを見て、視線が室内に戻ってきた。
お待ちの間どうぞ、とテレビをつけてくれた。ちょうどニュースの時間で、今朝の事件が報道されていた。自然と二人の意識はテレビへと向けられた。
『今朝、事件が起こった現場に来ています。こちらのゴミステーションに、絞殺された女性の死体が置かれていたとのことです。発見したのは――』
「花のこと、言わないんですね」
ふと、草薙は言った。
「情報の規制が入ったんだろうね。詳細は精神的ショックが大きすぎる。上の判断は正しいと思うよ」
草薙の疑問に、宮寺はやさしく答える。特に今回のケースは多くの人々に不安を与える可能性がある。パニックにならないために、どこまで伝えるかが重要となる。理解した草薙は、テレビに視線を戻し、ニュースキャスターが伝える内容に耳を傾ける。
やがて、テレビ画面がスタジオに切り替わると、校長室の扉から三回ノックする音が聞こえた。校長の桂幸造と、教頭の松葉宗次郎が入室した。
「お忙しいところ、すみません」
宮寺は立ち上がり、二人に会釈をする。続けて草薙も挨拶をした。
「いえ。警察もお忙しいでしょうに。できる限り協力しましょう」
桂は柔和な笑みをこぼした。草薙たちにもソファに座るよう促し、やがて自身もゆっくりと音を立てずに座る。あたたかい人柄でありながら、品のある老年だ。
「あまりうろつかれても学校の信用に関わりますので、早めに解決してほしいものですねえ」
「我々もそのつもりです」
一方で、教頭の松葉はあからさまに不機嫌そうだった。眼鏡を押し上げたあとすぐにソファにもたれかかり、腕を組む。
「八か月前、児童の一人が育てていた向日葵が切り取られていたとお伺いしました。それは事実ですか」
宮寺は松葉の態度を気に留める様子もなく、優しい口調で問いかける。
最初から警察に協力的な人間は少ない。今更臆する必要などないが、一方で警察側も横柄な態度にでもなれば聞き出せる情報も減る。どちらかといえば、後者が心配だった。
「そんな前のことは……」
「いえ、記憶しています。他の児童のいたずらでした」
狼狽える桂に、隣に座る松葉がすかさず答える。
「それはどの児童だったか、覚えておられますか」
「その辺は、担任に任せています」
力の籠った声で、松葉が答えた。
「ほかにも、何か気になる点はないんですか? 他にも盗られたものだとか、植物があるとか」
松葉の威圧的な態度に緊張していた草薙が、口を開いた。
「さあ。私たちは把握していませんが――あの、それが何の事件と関係あるのでしょう?」
桂は困惑しているようだった。想定していたものとは違う質問が来たようで、教頭にも視線を送っていた。
「それは」
「捜査中ですので、詳しいことはまだ」
ふと、宮寺は窓の外の裏庭に視線を向けた。つられるように、桂たちも裏庭に体を向ける。
「それにしても、綺麗なお庭ですね。向日葵の他にも、桜の木もあるし、あの一帯はコスモスでしょうか。ああ、椿もありますね。もしかして四季をイメージしておられるのですか?」
「え、ええ。よくお気づきになられましたね」
桂は得意げな顔で返事をする。朗らかな笑みに活気が追加されたようだった。
学校の裏庭の端にある桜の木に目が行く。まだ三分咲きといった様子で、少しずつ淡い桃色の花が咲き始めていた。他にも別の場所に植えられた向日葵はまだ小さく、コスモスが植えられている場所は緑で生い茂っている。奥の生垣となった椿は今年の役目を終えて萎んでいる花がほんの少しだけ見受けられた。季節の変わり目で感動するほど綺麗な景色とは言い難かったが、周りに雑草が少ないことやそれぞれが見映えするような配置になっていることに、宮寺は感心していた。
「お手入れは、校長先生が?」
「まさか! 用務員の寺下ですよ。庭の手入れが得意だというので、かれこれ十年は任せています。これだけ季節がはっきりしている日本の文化を児童たちが感じ取ってくれたらと思って、用意しました」
桂は嬉しそうに語る。
「素晴らしい。そこまで考えていらっしゃるとは感服しました。職種が違うと見方や考え方も変わるものですね」
「ありがとうございます」
この学校の誇りのひとつです、と桂は述べた。力の入った特色を褒められるのは、誰でも嬉しい。桂は入室したときよりも、リラックスした表情を浮かべていた。
宮寺と桂が裏庭の話で盛り上がる中、草薙と松葉が同時に咳払いをする。緊張をほぐそうと、話を逸らしたつもりが脱線してしまった、と宮寺は謝罪した。
「ちなみに、お二人は昨日の十一時頃、どちらに」
ニュースにもなっている事件だと、松葉は身構える。
「私たちを疑っておられるのですか」
「皆さんにお伺いしています」
「いち早く、皆さんの無実を証明するためです。ご協力願えませんか」
宮寺が付け加えた。松葉は面食らったような顔をしていたが、そういうことならとしぶしぶ手帳を広げる。続けて桂もスケジュールを確認し始めた。
「そうですねえ。その日でしたら、委員会の会議に出席していました。そのあとの飲み会にも」
「私は家族と家にいましたよ」
「それを証明できる人は」
「私は家内が」
「私もそのころは飲み会だったと思うので、委員会の会長なら。あ、隣にいたN小学校の校長先生も証人になってくれると思います」
草薙と宮寺はメモを終え、二人に顔を向けた。
「ご協力ありがとうございます。あと、もう少し話をお伺いしたい方が」
◇◆◇
桂と松葉は仕事があると戻っていった。草薙たちは用務員の女性に教えてもらった教室を目指し、小学校の二階の廊下を歩いていた。音楽室など、使われていない教室が集まった廊下だ。賑やかな教室とは違った、落ち着いた空気が流れていた。
「宮寺さんってすごいですね。「無実を証明したい」って言ったとき、あの怖そうな教頭先生が一瞬面食らったような顔をしてましたね」
目を輝かせながら、草薙は言う。上司の聞き込み捜査に興味津々だ。
「ああ、さっきのことかい。誰だって疑われるのは嫌だからね。貴方を助けたい、無実であることを証明したい、と言うと味方っぽく聞こえるだろう?」
「確かに。だから素直に答えてくれたんですね」
「まだ裏を取ってないから、素直かどうかは分からないけどね」
人を疑う仕事だと叩き込まれているが、草薙にとってはなかなか難しい課題だった。 草薙はぐっと口を噤む。
ふと、宮寺は教室の前で足を止める。扉の上には『図工室』と書かれていた。
扉を開けると、大きな机がいくつか並んでいた。白い脚に黒の天板。それぞれの机の横には窪みがあり、蛇口が備え付けられていた。
「どなたですか? 部外者はお引き取りを」
声のした方を見ると、三十代ほどの女が画用紙の束を持って立っていた。物音を立てた草薙たちに振り返り、リボンのついた髪飾りがふわりと舞う。
綺麗な人だった。指輪が添えられた、白く繊細な指先。エメラルドグリーンの髪飾りは一層さらさらの黒髪を際立たせた。思わず、草薙は口を開けながら彼女を見つめる。
「失礼。我々はこういうものです。教員の四月朔日樹さんでお間違いないですね。少々お話を聞かせていただきたいのですが」
率先して宮寺が警察手帳を見せる。慌てて草薙も手帳を開いた。
「授業の準備があるので、手短にお願いします」
「ご協力感謝します」
警察手帳をしまいながら、宮寺は注意深く四月朔日を観察する。
「八か月前に、向日葵の花が切り取られたことがあったそうですね。当時は貴方が担任だったと。それは、誰がやったか分かったんですか」
「児童のいたずらでした」
画用紙を黒板に一番近い机に置きながら、四月朔日は言った。
「その、児童の名前を教えてもらえませんか」
「……忘れました」
草薙の問いに、四月朔日は視線を逸らす。画用紙が収まりそうなプラスチックの浅い箱に、水を注いでいく。
「一年も経っていないのに忘れちゃうんですか」
「些細なことを覚えていられるほど、余裕はないんです。もういいですか」
四月朔日は冷たくあしらう。
「もう一つ。貴方は昨日の十一時ごろ、どちらに?」
「どうしてそんなことを?」
眉間に皺を寄せる彼女に踏み入ろうとする宮寺を制止し、草薙が一歩前に出た。
「貴方の無実を証明するためです」
満面の笑みで言い切った。「どうですか、宮寺さん」と言わんばかりに振り向き、上司の顔色を伺う。顔を手で覆う宮寺が目に留まった。
「皆さんにお伺いしています。ご協力願えませんか」
補足するように宮寺は言った。
「昨日の十一時頃でしたら、家にいました。マンションなので、入り口の防犯カメラでも調べてもらえば証明できるかと」
「この人たちに面識は?」
被害者たちの顔写真を見せて、宮寺は反応を伺う。
「ありません」
草薙たちの間を通り、四月朔日は机に水の入った浅い箱を置いていく。黒板に近い机に視線を向ければ、垂らすためのインクが何色も置かれている。
その隣には、小さなクロッキー帳とポーチがあった。クロッキー帳には繊細なタッチで植物が描かれていた。
「おや、そちらは先生の作品ですか? 綺麗な花のスケッチですね。なんという名前の花でしょう?」
「……ラズベリー、です。実のほうが有名ですけど、花も可憐で……花言葉も好きなんです」
「へえ。花言葉はなんていうんですか?」
「愛情、です」
「花言葉まですらすらと言えるなんて、花がお好きなのですね」
「ええ、まあ……それが何か?」
「いえ、つい気になってしまいまして。……おや、ポーチに献血グッズがありますね。いかれたことが?」
目に留まったグッズを指さし、宮寺は問う。ポーチには献血のキャラクターを模したストラップがついていた。
気に入ってつけているのか、使いやすいからなのか――なんとなく見当をつけていた宮寺だったが、その予想は大きく外れた。
「なんだっていいでしょう。もうよろしいですか」
彼女はひどく憤慨していた。予想外の反応に、宮寺がピクリと反応する。
「失礼しました。では、最後に一つだけ。皆さん、どんな事件の捜査か聞いてくるものなのですが、貴方は気にならないようですね」
「……事件に興味、ありませんから」
四月朔日は宮寺を一瞥したあと、開いたままのクロッキー帳をしまった。
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