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「ここかぁ」
成美がそう言って、両手を伸ばし、思い切り深呼吸をしている。
その姿が、博美と重なる。
昨日の夕立のおかげで、空気は澄んでいて、真っ青な空に山並みが映える。
この時間に来たのは初めてのせいか、それとも夏の日差しのせいなのか、景色が明るく煌めいて見える。
「私、就職するまでの何年かは、小田原に住んでたんですよ」
「そうだったの?」
「はい。母が実家で療養することになって、一緒に引っ越してきて」
「うん」
「でも、ここに来たのは、今が初めてです」
と、成美は目をきらきらさせて遠くを眺めながら、
「いい所ですね。気に入りました」
そう言って、もう一度深呼吸をした。
少しの間、二人は静かに景色を眺めていたが、
「あ、そうそう、お母さんからの伝言です」
と、成美が思い出したように、
「 “奥さんを大切にしてくださいね。裕也さんなら大丈夫だと思うけど” ですって」
「……うん。分かった」
「素敵な方ですよね、薫子先生」
「えっ、北川さん、知ってるっけ?」
「はい。5月に一度、奥さんのいる教室に代講で行った時に、挨拶だけしました。いつかちゃんとお話してみたいなって思ってるところです」
「そっか。それじゃあ、今度は3人で来ようか?」
「えっ?ここにですか?」
「うん」
「それは止めときましょうよ」
「どうして?北川さんも気に入ったんじゃないの?」
成美は、優しく微笑みながら首を振り、
「ここは、お母さんの初恋の人との思い出の場所だから……」
と言って、博美の眠るお墓の方に視線を向けた。
「あぁ……確かに」
「その代わり」
成美が笑みを裕也に向け、
「今度、ディズニーランドに行きませんか?」
「ディズニーランド?」
「はい。私、行ったことなくて」
「じゃあ、娘とその彼氏も一緒でもいいかな?」
「もちろん。私も、彼氏連れてきますね」
二人はそう言って笑い合ったのを潮に、夏の明るい日差しの中、欅の丘を後にした。
(完)
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