カナリアがいる教室

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 ***  わかっている。  小学校二年生に出すテーマとしては、かなり難しいものを選んだということくらいは。  それでも私が今回作文の課題をそう定めたのには、一応理由があるのだった。  現在三十八歳。教師をしている私には、四歳の娘がいる。  ある日子供向けのテレビ番組で、“狼と七匹の子やぎ”の話をやっていた。有名なグリム童話である。子山羊たちを食べて満腹になった狼を母山羊を襲い、その腹を切って子供達を救出、石を詰め込んで縫い合わせてしまった――まさにそんなシーンだった。 『お、おう?なんか、腹が痛い……重たい。なんでだ?なんで……』  水を飲もうと、よろよろと川へ歩いていく狼。娘は何度かこの絵本を見ているので、話の筋は知っているはずだった。ふらふらと川へ近づく狼を見て、娘は声を上げたのである。 『さっさとかわにおちろー!おぼれてしねー!ざまあみろ、おおかみめ、しねー!みんなきて、つきおとしちゃえばいいのにー!』  多分。  彼女はそれらの言葉の意味を、半分程度しか理解していなかったことだろう。だが、誰かが当たり前のように彼女の傍でそういう言葉を喋り、彼女もまたこの場面で使っていいと判断したのだ。  私は、言葉にできないほどショックを受けた。  確かに、狼と七匹の子山羊の話は、よくある勧善懲悪ストーリーとして描かれるものである。狼は子山羊たちを騙して食べてしまい、母親は子供達を助けるために狼のお腹を切って石を詰めた。最終的に狼は水を飲もうとして川に落ちてしまい、お腹の石が重すぎて這いあがれず、川で溺れて死んでしまう。そして、もう悪い狼はいなくなったと、みんなで喜び合うという物語である。  彼女が応援しているのは、紛れもなく正義の側であるはずだ。  それなのにショックを受けたのは恐らく、気づいてしまったからに他ならない。――子供に読ませるための絵本で、童話なのに。この物語はどんな理由であれ“人殺し”を肯定しているのだと。そして、子供達もそれを見て“殺してもいい悪が存在する”と学んでしまっていることを。 ――確かに、世の中には……救いようのない外道がたくさん存在するのも事実。でも、だからって人を殺したら現実では罪になる。誰かにとっては悪にしか見えない人間が、誰かにとっては優しい両親や子供や兄弟だったりするということもある。……私たち教師は、そういうことこそ子供達に教えなければいけないんじゃないかしら。  自分は、生徒たちに本当に大切なことを伝えられているだろうか。  童話の物語には、残酷なものが多い。ただ、その物語の勧善懲悪を真に受けて、現実でも“悪と決めつけた相手は殺していい、断罪していい”と考えてしまうのが本当に正しいことなのか。 ――考えてほしい。……物語の登場人物たち、一人一人の気持ちになって想像して……自分だったらどうするべきか、何を想うかを真剣に見つめてほしい。どんなに言葉が拙くても、それでいいから。  私はそう考えて、子供達に原稿用紙を配ることにしたのだった。実際、私が作文をやると言った時こう叫んだ子供がいたわけである。 『うわあああああああああん先生なんて不倫してざまあされちゃえばいいんだあああああああ!』  不倫は確かに罪ではある。  しかし、それを第三者がどうこう言って裁こうとするのは何かがズレているというもの。何より、ざまあという言葉は“ざまあみろ”と相手を見下して嘲笑う事から来ているのだ。  エゴかもしれない。それでも私は自分の生徒たちに、簡単に他人を踏みつけて嗤う人間にはなってほしくないと思ったのである。  誰かを断罪し、悪と決めつけて踏み台にすることは人生にとって必須ではない。結局のところ、誰かと比べようが比べまいが、己だけの幸せを掴まなければ幸せになどなれないのだ。  童話を通じて、彼等にもそれが伝わればいいのだけれど。
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