カナリアがいる教室

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『人間にも、いろんなひとがいます。走るのがおそいひと、べんきょうがにがてなひと、オンチなひと、およげないひと、足がない人や、目が見えない人。でも、なにかできないことがあっても、自分にしかできないべつのことがあれば、ぼくはそれでいいとおもいます。自分が、自分を好きになれるりゆうがあれば、なんだっていいのです。カナリヤが歌を忘れたのは、とってもつらいことがあったからかもしれません。歌よりも、もっと好きなことを見つけたからかもしれません。それなのに、歌を忘れたら、それいがいのことは何も見てもらえないんでしょうか。後ろの山にすてたり、やぶにうめたり、ムチでぶたれたりしないといけませんか?それは、とてもおかしいことだとおもいます』 ――そうね。……誰かが、言ってあげればよかったのかもね。歌だけが、世界の全てではないと。 『ぼくは、カナリヤがなぜ歌をわすれたのか知りたいです。知って、思い出したくないならそれでもいいよと言ってあげたいです。そして、カナリヤをすてようとするやつから、カナリヤを守ってあげたいです。なぜなら、ぼくもいじめられたとき、守ってほしいからです。カナリヤは、歌えなくてもいいし、歌うなら好きな歌だけ歌えばいいと思います』 ――……そうね。その通りだわ。  不思議なことだ。  もう教師になって十年近く過ぎるのに、自分は何度生徒たちから大切なことを教わるのだろう。 『歌を忘れたカナリヤは、いっしょに遊べばそれでいい。  うしろの山にすてさせない  歌を忘れたカナリヤと いっしょにお空をみあげましょう  いっしょにおはなし 聞いたげる』  作文の最後には、彼なりの替え歌が書かれていた。歌が歌えなくても、カナリヤはカナリヤでいい。そうだ、自分は子供達に大切なことを思い出してもらおうとしたけれど、無理やり自分の倫理を押し付けるのも、“歌を思い出せ”とひっぱたくのと同じなのかもしれない。 ――歌えなくても、それでいいんだ。  自分の教室にはカナリヤがいる。  私は彼等に、どんな声を伝えられるだろうか。
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