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III
ミーシャことミハイルは二メートル近い長身と鍛え抜かれた体を持つ30代ほどの男性だ。
彼の妻ジェーニャことエフゲーニヤは栗色の髪とくりくりとした翡翠色の瞳を持つ小柄な可愛らしい女性で、ミーシャとは幼馴染でもある。
マリヤのことは、もちろん好きだ。
友人としてだけではなく、女性として魅力的だと感じている。
だが、アパートの住人達のことは少し苦手だった。
会話をしていても反応が淡白、というよりもこちらの言葉を聞いて返すまでが、不自然なまでに長い。
その返す内容というのも、一言、二言、無難なことを言うだけで、時には話の内容に関係なく、Да、Нетのような返事だけが来ることもある。
それはミーシャやジェーニャにしても同じだ。
しかし――彼らを不気味と感じる理由はそれだけではない。
「お待たせ、三人とも紅茶で良かったわね。今年の木苺のジャムはかなり出来が良いわよ」
ボルシチと黒パン、サワークリームという一般的な家庭料理をアレクセイ達が平らげたのを見計らい、マリアが紅茶とジャムを運んできた。
絶妙な甘さと酸味を持つ木苺のジャムが口内に広がり、余韻が残っているうちに紅茶で流し込む。
紅茶の楽しみ方は数あれど、これ以上のものを自分は知らない。
――ふと、自分へと突き刺さる視線を感じた。
顔を左へと向けるとミーシャと目が合う。
表情には隠しきれぬ不機嫌さが浮かび、口を強く引き結んでいた。
何かを堪えるように体が震えていて、今にも唸り声が聞こえてきそうだ。
彼、いや、彼らのこのような様子を何度も既に見てきたアレクセイにはわかってしまう。
これは〝飢餓〟だ。
ここの住人達は時に自分に対して、まるで捕食者のような目を向けてくる。
ジェーニャの方へと視線を向ければ、ミーシャに比べれば遥かに落ち着いているが、顔を赤く上気させて艶っぽい翡翠色の瞳でアレクセイを見つめていた。
――「あら、食事が足りなかったかしら?」
その場の空気が瞬時に凍りつく。
二メートル近い長身と鍛えられた肉体を持つミーシャの体が小刻みに震え出す。
台所から、歩いて来るマリヤの双眸は怜悧にして傲慢、神話世界の女神達さえも凌駕せんばかりの美貌に今は、彼のピョートル大帝を彷彿させる威厳を纏っていた。
彼女は静かにその場に屈んでミーシャの顔を見下ろす。
「ピロシキと葡萄酒を一本包んだわ。今日はもう夜も遅いしね? ジェーニャ、彼は少し体調が悪そうよ。早く連れて帰った方が良いわ」
部屋の隅で叱られた犬のように小さくなっていた彼女は、即座に荷物をまとめてマリヤに一言、感謝を伝えると夫と共に出て行った。
二人になるとマリヤは、まるで恋人のように接して来る。
アレクセイとマリヤは二人で同じ毛布に包まり、ソ連の古い映画を見る。
『惑星ソラリス』『運命の皮肉、あるいはいい湯を』『戦艦ポチョムキン』……。
どれもロシア人ならばテレビで必ずと言っていいほど見た映画で、今更何かを感じるということもない。
意味をなさぬ音が流れていく中で、隣に眠る女性の息遣いと甘えるような囁きが彼の耳朶を打つ。
体を時折り、這う手の冷たい温度と甘美な感触が思考を支配していき、絡めとられていく。
アレクセイは心地良い眠りの世界へと旅立った。
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