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 ‪✝︎    マリヤの管理人を務めるアパートで過ごして、それなりの時が経った。    アレクセイはマリヤと過ごす甘美な時間の虜になっていることを自覚しつつ、住人達に対しては以前とはまた違う気持ち悪さを感じていた。  というのも、最近は彼がどこに居ても住人達の誰かの姿を見るのだ。  【十月十五日】  この日はネフスキー大通りにある巨大書店【ドームクニーギ(本の家)】を訪れた。  音楽雑誌を物色していれば隣人のアンナが、すぐ近くで自分と同じ本を眺めていた。  彼女にも同様の趣味があるのかと最初は喜び、話しかけたもののどうにも反応が薄い。    ならば普通の世間話をしようと思ったものの、どんな話を振っても、Да(はい)Нет (いいえ)のような淡白な返事しかなかった。  【十一月十二日】  夜にカザン大聖堂を見に行った。  ライトアップされた美しい街並みの中でも、丸屋根に聖母子の姿が映し出された大聖堂には格別の威容があった。  目前では(あで)やかな黒髪を持つアジア系の女性が、この一瞬を目に焼き付けようと視線を屋根へと向けていた。  言葉を交わしたこともなく、この後に交わすこともないであろう女性と自分は今、全くの同じ感覚を共有している。  だが、心地良い充足感を覚ますように背筋を冷たいものが走り抜けた。  背後へと、視線を向ければそこには屋根を静かに見つめるミーシャが居た。    ペテルブルク屈指の観光名所だ。  このようなことも珍しくはないのだろう。  だが薄気味悪さにその場では結局、一言だけ挨拶をして去ることにした。  【十一月二三日】  この日はエルミタージュ美術館を訪れた。  ルーブルなどと並び世界で最も所蔵数の多い美術館だ。  五つの建物が一体となり、ネヴァ川沿いに果てしなく広がる  中でもロマノフ朝時代の王宮でもあり、本館でもある冬宮殿(ジームニィ・ドヴァリェーツ)の美しさは格別だ。  翡翠色(ビリディフローラ)の宮殿は雪を(まと)い、薄明かりの空の(もと)、荘厳な(たたず)まいで人々を見下ろしていた。  長いこと、この地を訪れていなかったアレクセイは控えめに言っても浮き足だっていたが、同時に周囲に細かく目を配ってもいた。  最近は住人達の視線が気になるあまり、アパートに帰ってからは逃げるように自分の部屋に駆け込む生活が続いていた。  周囲に彼らの姿が無いことに安堵(あんど)しつつ、アレクセイは入館手続きを終えた。  自分はこの地であらゆる芸術や刺激に触れて、互いに高め合える友を作りに来たのだ。    いつまでも、あの気味の悪い住人達に振り回されているわけにはいかない。  この貴重な時間を精一杯楽しむべきだろう。  だが、アレクセイの安堵と決意は即座に打ち砕かれることとなった――。  彼が立つのはオーラス・ヴェルネ作『死の天使』の前だ。  死を告げる者、死後の魂の導き手として描かれる天使。    ミカエル、ガブリエル、サリエル、アズラエルなど様々な名のある天使が西洋絵画では死の天使として描かれてきたが、この絵に描かれる天使はあまりにも不気味だ。  素顔を隠す黒衣と暗く影を落とした翼、その手は女性をどこへ連れ去ろうとしているのか。  これが本当に天の使いだと言うのか。  そこまで思考を巡らせた時だった。  背後にアンナ、ミーシャ、ジェーニャと言った住人達が立っていることに気がついたのは。 「君達は一体なんなんだ!?」  懇願(こんがん)するような問いに彼らは誰一人として答えることもなく、絵を見つめていた。
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