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美術棟
私の通う金城大学は国道8号線から横道に逸れた緑の田園の中に建っている。その道は駱駝の背中かナイル川のように蛇行し、冬季限定で通学生徒の車が路肩から田畠へとダイブした。そして建物は全面ガラス張りの三階建で数日おきに野鳥が天へと召されて行った。それを咥えて走り去る狸。
「うーーーん、自然の摂理、食物連鎖」
石の正門を潜り抜けると向かって右側が幼児教育コース棟、保育士を目指す生徒たちがピアノを弾き体操を踊り歌を唄いとても賑やかだ。赤茶の煉瓦貼りの廊下を左に折れると事務課がある。そしてワカメうどんが美味しい学生食堂、ビジネスコース棟、仄暗い渡り廊下を進むと瞬時に辺りに漂う空気が変わる。
春夏秋冬、寒々しく時が止まった美術棟だ。
「ーーーふぅ」
私、田上七瀬は大判の透明アクリルボードを抱え二階のデザインコース制作室へと運んでいた。厚さ10mm、かなりの重さで息も絶え絶えだが誰も助けてはくれない。ここは単独行動の世界、自分だけが頼りだ。
このアクリル板には暖色系から寒色系のアクリルシートを豆状にカットし濃淡で円を描いてゆく。それが一体なにを意味するのか自分自身でもよく分からないがとにかく夏季休暇前に課題を提出しなければならなかった。
(ーーーこれが仕事につながるとは到底思えない)
そんな事を考えていた私は階段を一段踏み外してしまった。
「あっ!」
振り仰いだ天井には燕が巣を掛けていた。「あーー知らなかった」と身体が地球の引力に負けた瞬間、鋭い音がしてアクリルボードが粉々に砕け散る音がした。
(ーーー高かったのに)
そして気が付けば私は階段途中でこの身を誰かに預けていた。
「おっとっと、君、胸大きいね」
確かに色とりどりの油絵具が付着した分厚い手のひらが私の両胸を下から支えていた。これは褒め言葉なのか否かと考えて振り返るとベージュの帽子を被った丸眼鏡の笑顔があった。
「あ、カーネルサンダース」
危機一髪から救い出してくれた相手に大変失礼な発言をしてしまったが、彼の名前はカーネルサンダースではなく油画コースの井浦教授だ。他の美術科教授陣が神経質な細身である事から彼の体型が強調されてしまうのだろう。
(あ、胸板厚い)
私は今、井浦教授がメタボリックシンドロームや内臓脂肪過多ではない事を確認した。
「カーネルサンダース?」
井浦教授の出立ちは大概同じで遠目に見てもすぐに分かる。ベージュの帽子、白いTシャツ、ベージュのサファリベストにベージュのチノパンツとベージュの塊が床の上を移動しているみたいだった。
「君、チキンが食べたいの」
「いえ、そういう訳ではありません」
「はい、気をつけなさいね」
私は脇を掴まれると三段下の階段の踊り場に戻された。
「ありがとうございます」
「はい、では」
結局割れたアクリル板は自分で始末しなくてはならなかったが井浦教授のお陰で私は無傷で済んだ。そして初めて間近で見たカーネルサンダースの物憂げな目に私の胸は高鳴った。
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