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国道8号線の海を泳ぐ鯨のようなブルーバードは右折して緑の田園の中を進んだ。フロントガラスに広がる見覚えのある風景、通い慣れた学舎が近付いて来た。
「うっ、うっ」
「七瀬は泣きたくなるほどキャンパスが好きだったんですね」
「うっううっ」
「いつもやる気が無さそうにしていたので意外です」
「ううっ」
「じゃあ、もうひとつ思い出の場所を見て行きましょう」
ブルーバードは歩道のない生活道路を2分ほど走るとJR北陸本線在来線の古びた駅舎、加賀笠間駅の駐車場の白線の中で停車した。
「ここが初めてのデートの待ち合わせ場所ですね」
「違う!」
「違う、とはどういう意味ですか」
「ストーカーでしょ!私の後を尾けて来たんでしょう!」
「好きな人の後ろ姿は追い掛けたいものです」
まだ私に叫ぶ力があったのかと自分でも驚いた。惣一郎は運転席から降りると自動販売機の前でひとしきり悩み、ベージュのサファリベストのポケットから小銭入れを取り出して一枚、二枚と硬貨を販売機の中へ落とした。
「いつものオレンジジュースが無くて悩みました」
惣一郎は冷たい缶を私の左頬に当てた。それはまるであの日を思い起こさせ涙が溢れ出た。
「ーーー助けて」
「さぁ、ドライブはもうすぐ終わりです」
「ーーー助けて」
「笑って下さい」
もう私の声は惣一郎の耳には届かない。ブルーバードは後方発進で回転すると大通りに向かって緩やかに走り始めた。
(ーーーあ)
美術棟の雑木林を通り過ぎる瞬間、あの気配を感じた。椿の垣根の隙間から、金色の巻き髪で華やかな花柄の青いワンピースを着た女性が私に手招きをしていた。
(ーーーもう一人の女性は美術棟の雑木林に居たんだ)
私は静かに目を閉じた。
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