11人が本棚に入れています
本棚に追加
14
まだ仕事は大量に残っていたが、終業時間の三十分前、午後五時に、匡久は院長室を出て、理事長室に向かった。
今日は、理事長である父の征司が出勤している日だ。帰る前に捕まえなければならない。
理事長室のインターフォンを押すと、中から、『どうぞ。開いてるよ』と返事がある。
匡久はドアを開けて中に入った。
「巧に変な話をするなよ」
「何? ああ。……碁を打ちに来た日の話か」
「そうだよ」
「変な話なんかしていない。大事な話だ」
「じいさんの話なんかで、巧を縛るな」
征司は、フンと鼻を鳴らした。
「巧がどう思うかは巧の自由だ。だが、この家の子なんだから、知っておいたほうがいい」
「巧は優しいんだよ。変な話するから迷ってる」
「いいことじゃないか。ゲームを作るなんてくだらんよ。あの子はまだ子どもなんだ。つまらんものに夢中になって……。二十歳過ぎれば、どうせそんな仕事くだらんと自分で思うようになる。子どもに変な道を選ばせてるのは、おまえだよ、匡久。迷わせてるのはおまえだ。もっと厳しくしてやればいい。縛ってやるくらいのほうがいいんだよ。いずれ巧も感謝する」
「だけど……」
「だけど、何なんだ」
「巧の人生だよ。巧が決めるべきだ」
「それはわかってる。おまえはどうなんだ」
「僕が何?」
「おまえは俺の敷いたレールの上を走ってきた。まあ、俺に反発して、二年ほど東京に行ってた時期もあったが」
「行ってよかったと思ってる」
「ふん。帰ってきたことを後悔してるのか」
「僕はしてないよ。でも巧は違う。僕じゃない」
「……あの女の子どもだな、巧は。夢見がちで」
「まりえをあの女って言うな」
「……。なぜ、あのまりえだったんだ。もっといい話はたくさんあったのに」
「大きなお世話だよ。まりえちゃんは純粋な人だったんだ。今、そんな話をしてないだろ。親父は巧が可愛くないの?」
「可愛いさ。いい人生を歩んでほしい。だからここにいたほうがいいんだよ。巧はいい医者になる」
「なりたくないものになっても、いい医者にはならないよ」
「巧も奏も、いい子に育ったな、匡久」
「何だよ、急に」
「二人とも真っ直ぐで純粋だ」
「僕もそう思うよ」
「それはこの田舎で、いい人たちに恵まれて育ったからだ。ここは田舎だけど、いいところだ。そして、この病院は地域に必要とされている。ここで働いて、人のためになり、ここに骨を埋める。それが幸せだと俺は思う」
「それは親父の幸せだろ」
「本当にあの子たちを都会に出すのか、匡久」
「二人ともそうしたがってるよ。僕はあの子たちの希望を大事にしたい」
征司は、大きな溜め息を吐いた。
「この病院はどうするんだ、匡久」
「……この病院は、世襲でやるには少し大きくなりすぎたよ。それに僕には、親父やじいさんみたいな経営の才覚はない。僕はいずれ、いい人を探して、経営を任せたいと思ってる」
「売るのか!」
「ずっと先の話だけどね。今からそれも考えておこうと思ってる。桐生副院長にも相談しながらね。それにもう、理事には外部の先生も入ってるじゃないか。だけど、当分は僕と親父と桐生を中心にやるさ。藤波副院長もいるしね」
征司は唸った。
「俺は、おまえのじいさんたちに会わす顔がないよ」
「そんなことはないよ。親父も一緒に考えてくれ。どうするのが一番、地域や患者さんたちに貢献することになるのか。じいさんが考えてたのは、いつもそれだったじゃないか」
「……いつか、巧が考え直して、医者になると言ったらどうするんだ」
「学費を出してやるくらいの金はあるよ。あとは巧の問題だ」
「……」
征司は長い間、黙っていた。
「戻るよ。まだ仕事が残ってる」
匡久は出て行こうとした。
「匡久!」
呼び止められて、振り返る。
「匡久。あの子たちを外に出すのなら、その前に、きちんと教育をしてやれ。精神の基盤を持たせろ」
「……」
「今でこそ、パワハラだ、モラハラだ、カスハラだと言うがな。昔からそんな連中はいっぱいいるし、これからもいなくなることはない。知らない人間に囲まれて、そういう連中に流されたり倒されたりしないようにーー根になるものを持たせて送り出してやれ。いい本を読ませろ。身体を鍛えさせろ。自分で考える力をつけてやれ。流されない力をつけてやれ」
「……わかった。考えるよ。ありがとう」
最初のコメントを投稿しよう!