11人が本棚に入れています
本棚に追加
15
夜、巧は一人で母のアトリエにいた。
本棚の大版本の並んだ側から石膏デッサンの教本を取り出すと、椅子に体育座りした。
目次を開いて、順番に読む。
ーーないなぁ、セネカの描き方。
そもそも、『セネカの描き方』なんていう都合のいい分類の仕方はされていないようだ。
立ち上がり、本を棚に戻す。
また体育座りして、ふぅ、と溜め息を吐く。
ーーねえ、お母さん。芸術家って、みんなあんなふうなの? 顧問の先生はさ、美大志望の人と、可愛い女子にしか興味がないみたいなんだ。僕のデッサンなんて、全然見てくれないんだよ。しかも、授業のない時間は、昼間でもいつも美術準備室の寝椅子で昼寝してるんだ。公務員のくせに。あんな人を養うなんて、税金の無駄遣いだと思わない? ひどいよね。そんなひどい人なのに、毎年、日展に入選するすごい芸術家なんだって威張ってるんだよ。あーあ。人間の立派さって一体何なの、お母さん? 僕は芸術家が嫌いになっちゃいそうだよ。
巧は一人、心の中で母に話しかけた。
その時、ガチャガチャと鍵穴に鍵を差し込む音がした。
巧がそちらを見ると同時に、父が顔を見せる。
「ここにいたの、巧。降りて来ないから、寝てるのかと思ってた」
「お父さん。ごはんは?」
「食べたよ。お風呂も入った」
「早いね」
「巧は何してるの」
「僕さ、部活で今、セネカのデッサンしてるんです。でも上手く描けなくて。本を探してたんです」
「セネカのデッサン?」
「石膏像です。石膏デッサン」
「へえー。頑張ってるんだね」
「うーん。まあね」
「そういえば最近、SNSはどうしたの。イラスト、しばらくアップしてないね」
「それなんですよ! それが描きたくて、セネカのデッサンしてるの」
「どういう意味?」
「老人を描きたいんです。でも上手く描けなくて。セネカの像は老人なんです。それが上手く描けたら、イラストも描けるかなって。僕、主人公を導いてくれる、偉大な老賢者を描きたいんです。でもね、絵も上手く描けないし、老賢者と主人公の会話も上手く書けないんだ。老賢者が主人公に何を教えるのか、僕にもわからないんですよ」
「へえ。難しいことしてるなぁ、巧は。でもセネカって、ストア派の哲学者のことでしょ? セネカを読んでみたらいいんじゃない? 老賢者が言いそうなことを言ってそうじゃない」
巧は目を丸くした。
「お父さん、なんでそんなこと知ってるの?」
「お父さんだって、セネカくらい知ってるよ」
「読んだ?」
「……ごめん。読んではない」
父はバツが悪そうに言った。
「へえー」
巧はまじまじと父を見て言った。
「ストア派ってさ、倫理の授業に出てきたよ」
「ふーん、倫理習ってるんだ」
「うん。プラトンてさ、なんかカッコいいよね」
「プラトンねえ。カッコいいかな? お父さん、高校の時、何冊かだけど読んだよ。読みたかったら、おじいちゃん家にあるよ、たぶん」
「えっ! そうなの!?」
「うん。世界の名作全集とかさ、集めるのが大好きなんだ、あの人は。分厚い本がいっぱいあるよ。読んでないと思うけどね。借りに行ったら、きっと喜ぶよ」
「そうだったんだ! おじいちゃん、すごいね!」
「すごいかな? 集めるだけだよ。巧は、倫理が好きなの?」
「うん。楽しいよ」
「へえ、知らなかったな。中学の頃は、社会科は苦手だって言ってたのにね」
「世界史の先生が教えてくれるんだ。本橋先生っていうんだ。セネカはさ、ネロ帝に疎まれて自殺したんでしょ?」
「そうだったなぁ。最初は上手くいってたんだよね」
「それでね、先生は最初の授業の時、『僕は倫理が本業じゃないけど、勉強しながら、みんなにわかるように一生懸命教えます』て言ったんだ。もう五十代後半くらいの先生なんだ。それなのに一生懸命勉強するなんてすごいと思わない? それでさ、授業が熱いんだ。でも、寝てるやつらも多いんだけどね。あんなに面白いのに」
巧は一気にしゃべった。
父はにこにこしながら、「ふうん」と嬉しそうに聴いている。
巧は続けた。
「でも奏くんはね、去年、一年生の時に、倫理が本業の先生に習ったんだって。『教科書を読むだけでつまんなかったよ』て言ってた」
「へえ。巧はいい先生に恵まれたんだね」
「うん! でも僕、教科書もわりと好きなんだ」
「そうなんだ。じゃあきっと、巧は倫理が合うんじゃない? プラトンでもセネカでも、読んでごらんよ」
「そうする!」
「老賢者のセリフが見つかるといいね」
「うん! ありがとう、お父さん。おやすみ!」
「おやすみ」
最初のコメントを投稿しよう!