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 夜、巧は一人で母のアトリエにいた。  本棚の大版本の並んだ側から石膏デッサンの教本を取り出すと、椅子に体育座りした。  目次を開いて、順番に読む。  ーーないなぁ、セネカの描き方。  そもそも、『セネカの描き方』なんていう都合のいい分類の仕方はされていないようだ。  立ち上がり、本を棚に戻す。  また体育座りして、ふぅ、と溜め息を吐く。  ーーねえ、お母さん。芸術家って、みんなあんなふうなの? 顧問の先生はさ、美大志望の人と、可愛い女子にしか興味がないみたいなんだ。僕のデッサンなんて、全然見てくれないんだよ。しかも、授業のない時間は、昼間でもいつも美術準備室の寝椅子で昼寝してるんだ。公務員のくせに。あんな人を養うなんて、税金の無駄遣いだと思わない? ひどいよね。そんなひどい人なのに、毎年、日展に入選するすごい芸術家なんだって威張ってるんだよ。あーあ。人間の立派さって一体何なの、お母さん? 僕は芸術家が嫌いになっちゃいそうだよ。  巧は一人、心の中で母に話しかけた。  その時、ガチャガチャと鍵穴に鍵を差し込む音がした。  巧がそちらを見ると同時に、父が顔を見せる。 「ここにいたの、巧。降りて来ないから、寝てるのかと思ってた」 「お父さん。ごはんは?」 「食べたよ。お風呂も入った」 「早いね」 「巧は何してるの」 「僕さ、部活で今、セネカのデッサンしてるんです。でも上手く描けなくて。本を探してたんです」 「セネカのデッサン?」 「石膏像です。石膏デッサン」 「へえー。頑張ってるんだね」 「うーん。まあね」 「そういえば最近、SNSはどうしたの。イラスト、しばらくアップしてないね」 「それなんですよ! それが描きたくて、セネカのデッサンしてるの」 「どういう意味?」 「老人を描きたいんです。でも上手く描けなくて。セネカの像は老人なんです。それが上手く描けたら、イラストも描けるかなって。僕、主人公を導いてくれる、偉大な老賢者を描きたいんです。でもね、絵も上手く描けないし、老賢者と主人公の会話も上手く書けないんだ。老賢者が主人公に何を教えるのか、僕にもわからないんですよ」 「へえ。難しいことしてるなぁ、巧は。でもセネカって、ストア派の哲学者のことでしょ? セネカを読んでみたらいいんじゃない? 老賢者が言いそうなことを言ってそうじゃない」  巧は目を丸くした。 「お父さん、なんでそんなこと知ってるの?」 「お父さんだって、セネカくらい知ってるよ」 「読んだ?」 「……ごめん。読んではない」  父はバツが悪そうに言った。 「へえー」  巧はまじまじと父を見て言った。 「ストア派ってさ、倫理の授業に出てきたよ」 「ふーん、倫理習ってるんだ」 「うん。プラトンてさ、なんかカッコいいよね」 「プラトンねえ。カッコいいかな? お父さん、高校の時、何冊かだけど読んだよ。読みたかったら、おじいちゃん()にあるよ、たぶん」 「えっ! そうなの!?」 「うん。世界の名作全集とかさ、集めるのが大好きなんだ、あの人は。分厚い本がいっぱいあるよ。読んでないと思うけどね。借りに行ったら、きっと喜ぶよ」 「そうだったんだ! おじいちゃん、すごいね!」 「すごいかな? 集めるだけだよ。巧は、倫理が好きなの?」 「うん。楽しいよ」 「へえ、知らなかったな。中学の頃は、社会科は苦手だって言ってたのにね」 「世界史の先生が教えてくれるんだ。本橋先生っていうんだ。セネカはさ、ネロ帝に疎まれて自殺したんでしょ?」 「そうだったなぁ。最初は上手くいってたんだよね」 「それでね、先生は最初の授業の時、『僕は倫理が本業じゃないけど、勉強しながら、みんなにわかるように一生懸命教えます』て言ったんだ。もう五十代後半くらいの先生なんだ。それなのに一生懸命勉強するなんてすごいと思わない? それでさ、授業が熱いんだ。でも、寝てるやつらも多いんだけどね。あんなに面白いのに」  巧は一気にしゃべった。  父はにこにこしながら、「ふうん」と嬉しそうに聴いている。  巧は続けた。 「でも奏くんはね、去年、一年生の時に、倫理が本業の先生に習ったんだって。『教科書を読むだけでつまんなかったよ』て言ってた」 「へえ。巧はいい先生に恵まれたんだね」 「うん! でも僕、教科書もわりと好きなんだ」 「そうなんだ。じゃあきっと、巧は倫理が合うんじゃない? プラトンでもセネカでも、読んでごらんよ」 「そうする!」 「老賢者のセリフが見つかるといいね」 「うん! ありがとう、お父さん。おやすみ!」 「おやすみ」
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