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「お父さん。僕、やっぱりセネカはよくないと思います」  食事をしている父に向かって、巧は言った。  父はきょとんとして巧を見る。 「どうしたの。もう読んじゃったの?」 「最初のだけ読みました。『生の短さについて』っていうやつ」  その本には、「他二篇」が収録されていて、巧はまだ、その「他二篇」を読んでいない。 「本を読むの早いなぁ、巧は。で、どうしてそんなによくなかったの。怒ってるの?」 「だってセネカは、公務のためや誰かのために働いて、自分の時間を削る人を、いい生き方をしてない人だって言うんですよ? それよりも、自分のためにだけ時間を使う人のほうがいいんだって」 「ふーん」  とだけ、父は言った。 「ふーん、じゃないですよ。お父さんは怒らないの? こんなに朝から晩まで、他人(ひと)のために働いてるくせに」 「それでセネカは、自分のために時間を使うっていうのは、どういうことをすることだって言ったの?」 「え? うーんと。なんか、哲学のために時間を使う人だけが閑暇の人だって書いてありました。アリストテレスとか、昔の偉い哲学者の本を読むのがいい、みたいな。そういう本は、自分にいろんなものを教えて与えてくれて、自分から時間を奪わないんだって」 「へえ」と言って、父は少し笑う。 「そういう自分の時間を持つのはいいことだよね」 「ええー?」  巧は意外だった。 「じゃあ今、お父さんは、なんで今みたいな生き方をしてるの? 他人のためにばっかり働いて、よくない生き方じゃない」 「そうだなぁ。でもお父さん、セネカと違うかもしれないけれど、仕事と、哲学や何かについて考える時間をもつことは、人生の両輪で、どちらも必要と思ってるんだ。そして、今は妥協点を見つけたと思ってる。仕事も忙しいけど、昔みたいに忙殺されてるわけじゃないし、哲学的な本を読む時間もあるよ。自分の生き方について考える時間もある」 「そんなこと考えてるの、お父さん」 「そりゃ考えるよ。それに、うちに入院した患者さんは、うちで死を迎える人も多いじゃない? 八十歳越えていても、死を恐れる人もいる。そういう人と一緒に、死や生き方について考えるよ。街から牧師さんやお寺の住職さんに来てもらって話を聴くこともあるし、けっこう生き方について考える機会はあるなぁ。他人のために働いてるけど、同時に自分のための時間でもあるんだ。それに、家で道徳やいい生き方についての本を読むことも多いよ。それも他人と自分の両方のためになってると思うな」 「それでお父さんは、今の生き方に満足なの?」 「うん、けっこう満足してるな。若い時はさ、最新の医療で患者さんを助けることが大事だと思ってて、為す術もなく死んでいく人がいるのが嫌だった。だから東京に出て、都会の救急の最前線で働いたこともあったんだ。でも、一年くらいで身体も壊すし、心も病んじゃってさ。同僚から、うつ病の薬を処方されたとき、ショックだったなぁ。自分にはこの仕事は向かないんだと思って、自分の限界を突き付けられた気分で帰ってきた。でも、突き付けられて良かったと思ってるんだ。自分の力量の範囲内で、謙虚に仕事をしようと思った」 「……でも昔は、うちの病院でも、もっと猛烈に仕事をしてたでしょ?」 「そうだね。巧や奏には悪いことしたと思ってる。仕事をすることが自分の価値だと思ってたんだろうね。仕事がないと自分の価値が感じられないというか。……そう思うと、あの頃のお父さんは、セネカに叱られそうだね」 「今はいいの? こんなに働いてるのに?」 「そうだなぁ。巧や奏には、やっぱり悪いことしてるね」 「そんなことないよ」と奏。 「お父さんのことを訊いてるんですよ」  と巧は言った。 「うん。お父さん、体力はけっこうあるんだよ。それに、奏や巧がお弁当作ってくれるから、元気だし。だから、これくらい働いても割と平気かな。帰ったら、二人と話せるし。それが楽しみだよ」
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