0人が本棚に入れています
本棚に追加
今までとこれから
「ママも座ったら?」
「そうね……、やることリストは全部こなせたし。早く起きすぎちゃったかな」
ママは大きめのハンドタオルで汗を拭くと、私の隣に体育座りをした。
ダンボールが積み上げられ、カーテンも外された部屋の隅で、二人で座り込んでいる。非日常だった。
今日は七月二十六日。引越し当日だ。
荷物の運び出しが今日の十時から、荷物の運び入れが明日の九時からとなっている。今の時刻は九時三十分。布団は布団袋に入れたし、今朝使った歯磨きコップだってもうダンボールの中だ。
あとは引越し屋さんが来るまで待つのみである。
「もう、これから青春だってときに引越しだなんて。ごめんねぇ、マイちゃん」
「別に……慣れてるし。転勤族なお父さんが悪いでしょ。ママが謝ることじゃないよ」
「そっかぁ、うちの子は相変わらず優しいねぇ。もっと親に当たっていいんだよ?」
「……慣れてるから」
お父さんの転勤は、私が小学生に上がった年から数えるとこれで四回目だ。初めての転校こそ道理がわからず苦戦したが、もう慣れっこである。引越しの荷造りもお手の物なら、周りとの関係を手放すのにも慣れてしまっていた。
「あんたそれダンボールにしまわなかったの」
それとは、クラスメイトからもらったメッセージカードのことだ。メッセージカードであって寄せ書きではない。クラスメイト三十九人分のカードの束だ。ほかの人に読まれないよう、プライバシーに配慮したのだろうと勝手に推測しているが、もらう側は読みにくいったらない。
「お父さんの車で読もうかと思って」
「酔わないようにね」
確かに。車で読むには不向きかもしれない。眉間にシワを寄せ、どうしたものかと考える。ハンドバッグの横に置いたまま、一旦メッセージカードのことは忘れることにした。
ママとの間に無言の時間が流れる。お互いにスマホをいじることもなかった。
「ママは運命の人って信じる? 信じてた?」
話を変えるには大胆過ぎたか。
ママはポカンと口を開けている。でも私は続けようとする。私はいたって真面目だ。
ただ、ママの反応から少し羞恥心が湧いてきた。
「次の学校には私の王子様がいたらいいなって話!」
「マイが恋バナなんて珍しい……! あら、引越し屋さん来たみたい。あんたはここに座ってメッセージでも読んでなさいね」
話を切り上げられたのは良かったが、一人残されてしまった。
私はいつもそうだ。私だけがみんなと同じ思い出を持っていないし、持てなくなる。
今回の転校だって、入学した中学を離れてしまう。私の、みんなとの思い出はそこまでなのだ。転入先でだって、重ねてきた学校生活の思い出はない。そこから卒業までの短い思い出だけだ。この先ずっと、“今まで“をみんなと共感することなく過ごしていくのかと思うと、胸がちくりと痛んだ。
そんな私の希望が、運命の人という未知の存在だ。
恋愛はまだよくわからないし、結婚という規模の話になるとさらにわからない。
それでも、離れていても私と思い出を共有できるような人に出会えたら、そんな出会いがあったらと、私は今回の転校にも希望を持つ。
「マイ、あっちに移動して。ここ邪魔になっちゃうから。ママの荷物もお願い」
言われた通り、私は隣の部屋に移動する。この部屋は荷物のほとんどを別の部屋に移してあるため、落ち着けそうだった。
三十九枚のメッセージカードが入った袋を開ける。一度パラパラと目を通していたが、人によって文章量の差が激しい。
「あんまり話したことがない人もいるもんね、特に男子」
こんなものを書かされて可哀想だとすら思える。今回の出席番号は男女を分けずに振られていて、メッセージカードはその順番に並べられていた。男女それぞれの文章量を考え、出席番号一番から順番に読んでいくことにした。
ふう、と大きく息を吐く。
一番は、天野さん。『今までありがとう』、そんな定型文から始まる文章は、去年秋の体育祭での私の活躍ぶりについて書かれていて、悪い気はしなかった。一年生リレーのアンカーなんてものを任されたときは断りたかったが、やった甲斐があったものだ。
二番は、男子だ。私の斜め前の席にいたというのに、内容が薄く、苦笑いをしてしまった。夏休みが明けた頃には、いや夏休みに入った今、彼の記憶に私はいないのだろう。
三番は、江崎くんだ。彼は個性的な文字を書くので一目でわかった。順番からして隣の席の彼だとわかってはいたのだが。それでも、彼だと確信させられてクスリと笑った。彼は私のことを『マイさん』と呼んでいた。メッセージにおいても、そう呼ばれていた。
『マイさんが転校するとは思わなかったです。どうしちゃったんですか?』
どうしたと聞かれても、父の転勤だとは説明されたはずだ。
相変わらずの、こちらを挑発するような口調のままメッセージは続く。私の自己紹介が面白かった、授業中にしていた落書きが下手だった。そんなことを並べられ、読み進めるほどに彼に対する怒りが湧いてきた。彼は私を茶化すのが非常に上手だった。
つい先日、終業式があった日の休み時間だってそうだ。彼にずっと見られていたようだったから用事を尋ねたなら、不気味に笑われた。
「なんなの?」
つい、声が漏れる。隣の席なだけあってか、男子のくせに天野さんの三倍はある文章量だ。
途中で読むのをやめようかとも思ったが、同じクラスになってたった三か月でこれほど私との思い出があること自体は憎めなかった。私はそのまま、その腹が立つメッセージを読み進めた。読み終わってしまう。気がつけばそう思っていた。きっと彼も『今までありがとう』なんて言葉で終わらせるのだ。
『これからはLINEで話しかけまーす。』
“これから“の文字に、私は息をのんだ。
「なんなの……っ」
私が一番欲しいものだった。
見透かされたようで、悔しかった。きっと文字が入りきらなかったのだろう。そんなに私をからかいたかったのか。やはり思い出の多さは憎めなかった。まだまだ私をからかいたかったのか。からかわれてやってもいいかもしれないと思った。
たまには私のことを教えてあげてもいいかと思った。
「マイちゃん、なにニヤニヤしてるの」
「なんでもない!」
頭上からママの声がした。私は慌てながら答えた。慌てながら次のカードに目を向けるふりをした。ママは引越し屋さんに呼ばれて、すぐこの部屋を離れた。
「私からLINEしてあげようかな?」
江崎くんのメッセージをもう一度見ながら、私は不気味に笑った。
最初のコメントを投稿しよう!