18.約束

1/1
前へ
/25ページ
次へ

18.約束

 今日は朝から雲が多かった。  空模様は風に誘われてあれこれと形を変える。あの雲は群れている羊たちのように、あっという間に流されてしまった。  午後からは雨が降るからと何度もやめた方がいいと言われた。しかしながら、雨のしずくはもう天から降ってきた。  広げた傘を握る手に力がこもる。  コンクリートに跳ね返る雨脚にも気にせず歩いていく。  それでも構わなかった。どうしても、今日行きたくて仕方なかった。  すいに会いたい。......その一心だけを心に握って。    何食わぬ顔で体育棟に入り、着替えもせずそのままプールサイドまで上がっていく。  少しは小降りになった雨が水面を叩きつけるだけの、殺風景な空間だった。でも、違うんだ。ここにはひとりだけ、大切な人がいるんだ......。  僕は息を吸い込むと、大きな声を出して呼びかけた。 「すい。......いるんでしょう」  自分の声に反応するように、プールの水面がきらめいた。  待ちわびていた公演のはじまりのよう。真っ暗な舞台に天井からの照明が一点だけを照らす。その光はじわりじわりと強くなり、やがて舞台女優が現れるのだ。  ......水面に浮かぶ光がひときわ強くなると、そこにすいの姿があった。  彼女はワンピースを着た姿で、プールの上に立っている。 「やあ、湊くん。......この姿で出てくるのははじめてだね」  そのまますいはこちらに向けてやってくる。泳がないで、裸足のまま水面を踏みしめて。プールの縁まで来ると、僕の方を見上げて顔を上げた。  すいははにかんでいながらも、どこか硬い表情にも見える。瞳はこちらを向きながらも、どこか遠い先を向いているみたいだ。  ある程度は想像していたことだ。だけども、実際目にすると息を?んでしまう。 「......すい」 「......駄目だよ、湊くん。今日は晴れてなんかいないんだから」  どうして来たの? 瞳はそう訴えかけている。それでも、僕は自分の意志でここに来た。 「僕は、きみのことが知りたい。 あの交差点で出会ってから、毎週塾で顔を合わせて。それから同じ高校になるなんて思いもしなくてさ。 それから、毎日一緒に居たよね。一緒に登校して、一緒に帰ったりもして......。 ......でも、どうして急にいなくなった?」  しっかりとすいの方を見て話す。 「よく考えたら訳の分からないことばかりだった。 きみはいつの間にかここに現れてさ。いや、ここにしか居ないんだ。 そしてさ、僕がだれかと一緒にいるときには、消えてしまったりもして」  すいもこちらに向けている視線を離さずに聞いてくれる。 「......きみのことを、想像上の友だちなんていう人がいたとしても。 僕はきみを信じたいんだ、だから教えてほしい」  僕はここまで一息に言うと、軽く息を吐いた。それからしばらく何も言わない時間が流れた。わずかな風が、沈黙に効果音を鳴らす。 「ねえ、人魚姫の最後ってどうなるか知ってる......?」  すいが力なくはにかんで話を切り出した。  なぜ人魚姫の話題が出るのだろう。これから何がはじまるのか分からないから、つい口を噤んでしまう。  不思議なおとぎ話に連れていかれそうだった......。  ・・・  人魚姫はアンデルセンによって書かれた有名な童話作品だ。  やさしい心を持つ人魚姫が人間の王子に恋をする物語で、瑞々しくも儚い恋模様のストーリーが描かれている。  15歳を迎えた人魚姫は海の上へ昇り、人間の世界にやってくる。  王子様に恋をした彼女は彼からの愛を欲しがった。人間と同じような足を手に入れるために、自身の声を失ってまで。  しかしながら、運命は上手くいかない。なんとあろうことか、王子様は人間の女性と婚約をしてしまうのだった。  人魚姫は悲しみに暮れる。  元の姿に戻るためには、ナイフで王子様を刺しその返り血を浴びる必要があるという。だがしかし人魚姫は王子様を刺すことができず、ナイフを海に投げ捨て、海に身を投げる。  最後には人魚姫は泡となって消えてしまう。 「......そう。恋に焦がれて、恋に泣いて終わるの。それが人魚姫だよ。 でも、実際はそうじゃないんだ」  どういうことだろう。つい話の続きが気になってしまう。。 「人魚姫は死んでいないんだよ」  ......え? この子は何を言っているんだろう。 「泡になって消えた人魚姫は、それから王子様の近くだったり遠いところに居たりするんだ。だから、決めつけて話しちゃうのってよくないよ」  絵本で読んだ人魚姫は命を投げたという。  でも、すいの言い方だとまだ生きているように感じてしまう。  ......何が正しいのか、もう見えなくなっていた。 「今のわたしは、人魚姫になったような気分なんだ。 ずっと大切な人のために生きているんだよ」  さっきから、話のつかみどころがわからない。手を伸ばしてつかんだ泡はつぶれてしまうように、何も得られないような話が続いていた。  生きていると言われても、今感じてしまう人魚姫の後先みたいで、いまいち実感が湧かない。  それでも、記憶は身体なしに成立しないはずだ。  きみが覚えていることも、僕が覚えていることも。生きているから実感できるんだ。いくら、きみが不思議な身体になったとしても。  すいがゆっくりと首を横に振る。  まさか、僕が想像していることよりも、裏返しのように違うのだろうか。そしたら僕は、何を見ている?。 「......そんなこと、ありえないでしょう」  少しずつ雨脚が強くなってきた。  お互い雨に濡れるのも構わなかった。僕はプールサイドの縁に、すいは水面の上に立ったまま、それぞれの瞳を離すことができない。 「......わたしは、イマジナリーフレンドなんかじゃないよ。 もちろん幽霊なんかでもない」  そろそろお盆の時期だ。ご先祖様の魂が家に戻ってくる大切なイベントに合わせて、すいも皆と合わせて還ってきたとでもいうのか。  そんなこと、あり得るのだろうか。  そんなこと、あってほしくはない。  実在する単語だったらどれくらい良かっただろうか。だって、すいの温かさを今まで何度も感じていたのだから。 「きみっていったい......」 「だからさ。 わたしの願いが、わたしの魂をここに連れてきたんだよ」  ......自分が願ったことだから。そう告げるすいの言葉は、しんみりとしながらもどこか納得してしまう雰囲気があった。  もう何も自分の口から告げることができなかった。 「湊くん。覚えてる? わたしたち、去年の最後にひとつだけ交わしたじゃない。それを叶えるときなんだよ」  僕たちが交わしたもの。心の中に隠れたその言葉を探す。  やがて見つけたのは、たったひとつの言葉。    ――約束。    また会おうと約束を交わして、僕たちはカフェで別れた。  お互いに認めたい言葉を残したまま。また出会ったときに、きちんと伝えられるようにって。  なぜか心が震えてしまった。  この子は何を言っているんだろう。  約束を交わしたのは事実かもしれない。でも、いくら何でも去年のことだ。  とても大切なことなら、今になって言わなくても良いのに。今年のはじまりに言ってほしかったのに。  ......そして、こんな姿になってしまうなんて。    つい、すいを責めてしまいたくなった。少し前に踏み出すようにして、彼女の肩を掴む。  すいは潤んだ瞳をこちらに向けると、たったひとつだけ告げる。 「あの日に、学校のプールで待ってるから」  この言葉だけを言い残して、すいは消えてしまった。支えるものがなくなった僕は、大きな音を立ててプールに落下してしまった。  またしても、水の中へ堕ちて、終わる。  ・・・  その日の夜は夏の季節とは思えないくらいにひんやりとしていた。  エアコンを止めても気持ちよいのは、ベランダから入ってくる夜風の仕業なのかもしれない。    誰の言うことが正しいんだろう。  図書室での会話から、プールでの会話から、僕は学校に行けない気がしていた。  西原の言うことは事実だったとしても、にわかに信じられない。今まで経験した授業が、すいが支えてくれた温かみがあるから。  もしこれ以上すいと出会ってしまったら、問いただしてしまいそうな気がして。  そこに、スマートフォンが震える音がする。  西原から届いたメッセージの文章はただひとつ。  "大切な話です、折り返しお電話ください。"
/25ページ

最初のコメントを投稿しよう!

16人が本棚に入れています
本棚に追加