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1.夏のはじまり
夏がはじまる。
その気配に一喜一憂する生徒たち。
さまざまな声が上がる中、僕だけは顔をうつむけてしまう。
子どものころから苦手だったものがある。
とはいってもまだ高校二年生の自分もまだ、大人から見たら十分子どもなのかもしれないけれど。
それは学校生活がはじまる頃から生まれていた、小さくも心に残る遺恨。
きみがやらないといけないことなんだよ。そうしないと困るでしょ。
こうやって話しかけてくる人がたくさんいた。
でも、それは諭すようなに口調の裏に上手く丸め込もうという意識を感じてしまって、神妙な顔つきをしながらも心根を隠すしかなかった。
そんなことを考えながら、僕は水の上に浮かんでいた。
かといって何もするわけでもなく。
これが動物園に居るらっこだったらかわいいと言われるだろう。いつもぷかぷかと浮いていてその手には貝を割るための石を抱えている、あの生き物だ。
もちろん人間だから石は持っておらず、代わりに抱えているのはビート板だ。
そう、僕は泳げない。
「成瀬、放課後どこか出かけない?」
「いや、今日はいいや」
などとクラスメイトである村上の提案を上手くかわした僕は、今日こうして学校のプールに居る。
水の中というあの空間が怖くてたまらないし、身体ひとつで浮かぼうとするとつい力が入ってしまうし。本当に水泳の授業だけはストレスがいっぱいだった。
大人になったときに泳げる必要があるかどうかなんて考えたことはないけれど、今困っているのは事実だったりする。
この年になってもとよく笑われてしまうし、目先に迫った体育の成績だってある。
だから、水泳部の休みの日を狙ってプールに潜入しているわけだ。
・・・
今でも思い出すのは小学生の頃だった。
休み時間のときにクラスメイトが教室で激しく遊び回っていた。
明るく遊んでいるといえば聞こえも良いのだけど、あまり品のない生徒に担任の先生もどこか見捨てている雰囲気があった気がする。
ある日の休み時間だった。
誰かが持ち込んだかわからないおもちゃ用のダーツがあって、一部の生徒がそれで毎日遊んでいた。
自分はそこに混ざりたいわけではなく、いつも目立たないように教室の隅にいた。ちらりとグループの方を見ると、ちょうどダーツの矢が的に当たったところだった。
その的はまるで自分みたい。
クラスでは浮かない自分だから、別にいてもいなくても問題ないだろう。
でも、自分の存在が意味を成すとするなら、それは外れくじ以外の何物でもなかった。
「お前と同じグループってやだな」
「このグループじゃ負けるの決まりだな」
こうやって言われたことは何度もあった。
小学生では水泳の授業で水泳大会が行われる日があり、リレーで一番最初にゴールしたチームが優勝となる。
自分が足を引っ張ってしまうから、順位は下から数える方が早かった。
本当はプールの授業そのものを参加したくなかった。仮病を使いたかったし、どこへだって逃げ出したかった。
居なくても文句は言われないだろう。
でも、どことなく真面目な性格が災いしていちおうは出席してしまう。
そしたら必死に泳いでいる自分に嘲笑の矢が飛んでくるのだ。
学校で行われているスポーツはたいていこんなものだと思う。
長い距離を泳いだり、サッカーでゴールを決めたりなどの輝かしい一面があるとヒーローとして注目を浴び、クラス中のまぶしい視線を集めるのだ。
今見えている水面はきれいなのに、体育だけは嫌いだった。
・・・
体育の授業に意味を持たせるならなんだろう。
小学生の頃から抱いている考え事をビート板に乗せながら、空を見上げていた。
少しずつ日が沈みはじめ、いくら夏とはいえ少し空気が冷たくなってきたような気がした。
わずかなそよ風が水面を揺らす。
つい身体をこわばらせてしまった。全身に力が入りそうなところでビート板を握りしめた。
そのままじっとして、揺れが収まるのを待っていた。
どのくらいそうしていただろうか、感じていた緊張はため息となってあふれ出した。
今日はもう止めにしようか。
長年に続く問いも、挑戦する意味も分からないまま、代わり映えのしない日々が続いている。
何もできていない自分に愛想をつかしつつも、何かしら特訓はしないといけない。
けれども、どうすればいいか見当もつかなかった。
空には太陽が浮かんでいる。
そちらを眺めていても、なにも答えてくれなさそうだった。せめてなにか特訓のメニューでも出してくれればいいのに。
期待なんかできないか、と思い直してあごを引き水面を視界に入れる。
なんとか足を動かしてプールサイドの縁まで行こうと思ったところだった。その視界の向こうにとある人物を見ることができたのだ。
その姿は、木陰にたたずむカワセミのように美しかった。
きちんと学校指定の水着をつけて、足を水につけて。
プールサイドの向こう岸に腰かけてこちらを向いて微笑んでいた。
彼女が、"すい"がここにいる。
彼女は「えいや」ってプールの中に飛び込むと、こちらへ向けて泳いでくる。
僕は何が起きているかわからないまま、その姿を見つめてしまっていた。
自分の近くに浮上した彼女は、こちらを向いて微笑んだ。
「ふふ。湊くんがんばっているね」
そして、まるで誘うように、僕をいちばん近いプールサイドまで連れていく。
お互いに縁に手をかけたまま、しばし見つめあってしまった。
「いつからここにいたの?」
「わたしはずっといたよ」
問いかけてみても、シンプルな答えしか返ってこなかった。ずっと見ていたとはどういうことだろうか。
僕の疑問も意識しないまま、彼女は驚くような提案をするのだった。
自分の手をとって、すいは告げる。
「ねえねえ、湊くん!
わたしと一緒に泳ぎませんか」
え? この子はなにを言っているんだろう。
「いやいや、だからさ。
よければわたしが泳ぐの教えてあげようか」
今日この日、僕の瞳は彼女を映していた。
すい。なかなか珍しい名前を持つ彼女は、名前を結城 すいといった。
人懐っこく笑う表情、未だに幼さを感じさせる声。その愛らしさは昔と変わらなかった。
だけども、その姿がいつ現れたのかわからなかった。
まるで影送りのよう。
どうして、きみがここにいるんだろう。
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