1人が本棚に入れています
本棚に追加
ある寒い夜の話
元のあっしは江戸は新橋の生まれ。綱吉様のお治めになる御代のことで、建て替えられたばっかりの西本願寺の瓦がまだぴっかぴかだった頃におぎゃぁと生まれたってぇの話だ。
おっ母は髪結いと家事代行を同時にやってのけるようなお人で、当代風に言うなら「バリキャリ(と長耳の姐さんが言っていた)」てぇ肝っ玉母ちゃんだった。あっしぁそこの次男坊ってやつで上に兄ィが一人、下に妹が一人、そしておっ父という家族だった。
おっ父は夜泣き蕎麦屋だった。といってもそんじょそこらの薄汚いのとは違う、一本筋の通った蕎麦屋だ。息子のあっしが言うのもへんてこな話だが、味にこだわり、食ったら誰もが笑顔になれるような蕎麦を打つお人だった。夜泣き蕎麦屋を選んだのだって『いろんな町の人に食べてもらいてぇ』って気持ちからだ。
今でもおっ父が打った蕎麦を初めて食べた日のことは忘れられねぇ。
普段は宵遅くだからダメだって言うおっ母が、たまたま近くに店を出したからって長屋の木戸を開いて連れてってくれた。
月明りも薄い真っ暗をおっ母の提灯を頼りに妹の手を引き引き歩いた道は、近くにおっ母や兄ィがいてもどこか空恐ろしく、闇の隙間からがばぁと人喰い妖怪でも出てくるんじゃぁないかと気が気じゃぁなかった。
そんな時だ。風に乗って「チリリ、チリリ」と風鈴の音が聞こえたのは。
おっ母はその音を聞いてあっしらを振り返り「もうすぐだよ」と嬉しそうに笑った。今思えばおっ母も女の身で子どもを引き連れての行脚はどこか不安だったのかもしれない。
木塀の角を曲がった堀の近く、風に揺れる風鈴とそれを照らす提灯の明かり、それと人の笑い声が心のどこかをゆるりとほどいた。
塀の向こうに生えた柳が広げる枝の下にぽつりとある夜泣き蕎麦屋。昼にさんざと見ている白い暖簾を夜の藍に染めたそこは、なんでか絶対に安全だってぇ思えた。
「いらっしぇ…」
おっ父は決して愛想のいいお人じゃぁなかったが、その時ばかりは目元と口元をわずかばかりに緩めてあっしらを迎えてくれた。
あっしが食べたのはたぬき蕎麦。揚げは油の甘さを含んで上はかりっと下は蕎麦汁にじゅわっと溶けている塩梅で、しゃっきりとコシの入った麺によく絡んだ。とぷりと堀のお水みたいな色したおつゆは、見た目に反してほこほこと腹ん中を温めてくれる。何より揚げの油の溶けだしたそれは塩気と相まっていくらでも飲んでしまえそうだった。
無我夢中で食べて腹がくちくなって、ようやくどんぶりから顔を上げたら…笑っていた。
おっ母も兄ィも妹ももちろん、二本差しから大工の親爺さん、あきんどのご隠居さんから丁稚の小坊主、夜鷹の姐さん方までみんなみんな笑っていた。
満腹だと。安堵したと。幸せだと。
「お粗末さまでやんした」
そう言ってどんぶりを下げるおっ父は無表情ながらも幸せそうで、そして誇らしそうだった。
いいなと思った。あっしもこんな風になりてぇと、強く…強く思った。
齢七つでそう決意して。朝は手習い、昼はぼて振り、夕に蕎麦打ちを見よう見まねで真似をした。おっ父は特に何も言いやしなかったけれどもどこか嬉しそうで、それを見てあっしの修行もますます身が入った。
数え十七であっしも夜泣き蕎麦屋の端くれになった。味や気遣いやその他諸々、まだまだおっ父には及びやしなかったが、それでも家族みんな褒めてくれた。珍しくおっ父が昼の間に起きてきて、あっしと酒を共にしてくれたんだから相当だ。
そこからがむしゃらに働いた。てんで理想の姿には遠いってのは心の底から染みてたってんで、毎日「あぁしてみちゃぁどうか」「こういう味はどうか」と試行錯誤の連続だった。もちろん、一日だって休んだりしなかった。
妹の嫁入り資金を稼ぎきる頃には常連たぁ呼べる人たちも付いてくれて、自信満々たぁならずとも「これがあっしの夜泣き蕎麦だ」という姿が見えてきた。
そんな時分だった。あっしが死んだのは。
雪のちらつく寒い夜だった。いつものように八幡さんにお参りしてから、屋台を置く場所の近くを掃き清め、店の支度を始めた。木挽の堀の近くで欠けたお月様がお堀の水面に映ってたのをはっきり覚えてる。
その頃世間様では赤穂のお殿様の仇討ち事件でヒリつく空気が流れちゃぁいた。
とはいえ、あっしらのような庶民にとっちゃぁ雲の上のお話で、噂金魚があっちゃこっちゃで泳ぐのを面白おかしく聞いてるだけ。まさか、その金魚のはしっちょのはしっちょ、フンみたいなもんで死ぬなんざこれっぽっちも想像しちゃぁなかった。
丑三つを数えるころ、あっしの屋台に二人のお武家さんが顔を出した。どちらも初顔で、どちらも赤ら顔だった。どこかで少々…どころか升々やってきたという風体で、歌舞伎の女形もびっくりの紅の差し具合だった。
酒精をぷんと漂わせたお二人はおぼつかない足取りをなんとか椅子に収めて、呂律のろくすっぽ回りやしねぇ口振りで注文をなさった。さて、きつねだったかたぬきだったか聞き取りづらかったが、当人たちは特に気になんざしちゃぁいねぇ様子だった。
気にしちゃいねぇのはお品書きだけじゃなく、あっしのこともだったようで、「そりゃぁ聞いちゃぁまずいんじゃないか」というお上さんの話を大声で始めっちまった。どうやら、例の浪士たちの扱いを考えあぐねているお上さんに不満がある片方と、浅慮はいかんという片方の組み合わせだったらしい。それなりのお役目をお持ちの方だったのやもしれねぇ。
実はそういうこたぁはよくある。酒は百薬の長とも言うが、腹の中をぶちまける潤滑油としてもそりゃぁ優秀だ。そういう時、あっしらは貝の如くだんまりを決め込む。沈黙は金、てな具合。
やがて二人の話は水掛け論ならぬ火の粉の掛け合いになり、遂に片方が腰のもんを抜いちまった。
そうなりゃもう一人の方も黙っちゃぁいない。人斬り包丁をすらりと抜き椅子を蹴立てて立ち上がった。
慌てたのはあっしだ。お武家様は町中での抜刀を認められちゃぁいるが、それはあくまで非常時のみ。こんな平時に、しかも言い争いの果ての抜刀なんてぇのは当然罰則対象となる。
万が一それのとばっちり火の粉がこっちまで飛んで来たら、営業停止になりかねねぇ。それでなくとも、ここで暴れっられっちゃぁ屋台が壊される可能性もある。そうなったら商売あがったりだ。既に蹴倒された椅子には修繕が必要なのは夜目にも明らかだったからなおさらだ。
だから、あっしは金を捨てっちまった。「沈黙は金」を。
「おやめくだせぇ、お二方」
声を上げっちまってから後悔した。
酒精と怒りで我を忘れたお武家さんの顔がどうお見積もっても正気じゃぁなかったからだ。
「なんだ、おぬしは」
と、言ったんじゃぁないかと思う。その時は冷や汗が滝が如く出ていたし、お二方の口もうまく涎を閉じ込めちゃぁ置けないほど緩くなってたから想像でしかない。
二尺三寸はあろう鋼の塊が、ぬらりと月光を跳ね返すのが見えた。
「我らはこれからの世を憂い、討論をしておるのだ。一介の町人風情が口を出す出ないわ!」
そして、それがあっしの肩へ落ちてくるのが見えた。
「…がッ……!?」
肩から腹へ走り抜けた銀光は痛みよりも先に熱を連れてきた。
酒精にやられたお二人よりもさらに足元がおぼつかなくなったあっしは、そのままよたよたともう一人の方へ倒れこんじまった。
あっしの目にはほんのわずかに我に返り顔色を悪くしたお武家さんの喉仏がヒクついたのが見えた。
「う、うわぁ!」
悲鳴とともに突き飛ばされたあっしはそのまま背中からお堀の中に落ちた。あんなに熱かった腹はあっという間に冷え、息苦しさとともに視界が狭まっていく。
堀の水は黒く、月の光がわずかに見えるだけだった。
どうしてこんなぁことになったのか…。いっくら考えても答えなんざ出ず、助かる方法は更にひとっつも浮かばなかった。
ただ。……ただただ、悔しかった。
嫁入り前の妹にケチがついたかもしれねぇ。兄ィの仕事に影を落とすかもしれねぇ。ようやっと安心したと笑ってくれたおっ母の顔を曇らせるかもしれねぇ。
それにあっしはまだ、ここからだった。やり残したことなんか数え切れやしねぇほどある。ようやっと理想の蕎麦の姿がうすぼんやり見えてきたとこだった。「こうしてぇ」という蕎麦屋の在り様がほんのちょっとばかし掴めてきたところだった。
おっ父のような蕎麦屋になりたかった。おっ父を超えるような蕎麦屋になりたかった。江戸に来たからにゃぁあっしの蕎麦を食わにゃぁ話にならねぇ、そんな蕎麦屋になりたかった。
まだまだ、やりたいこともやれることもあった。ごまんとあった。
(悔しい…っ)
誰でもいいから助けてほしかった。
(八幡の神様、西本願寺の仏様。あっしを助けてくだせぇ)
確かにお殿様のような大金をご喜捨なんざできた試しぁありやせん。でも、あっしは毎日信心深く念仏を唱え、お参りにだって伺いました。鼻で笑われっちまうような額かもしれねぇが、心ばかりも包んでおりやす。
これからも、いや、これからはもっと深く信心しやす。
どうか、あっしを、助けて、くだせぇ……。
そんなことを考えながら遠のいていく光を見つめ、あっしの意識は闇の中に落ちた。
最初のコメントを投稿しよう!