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驚天動地の話
次に目が覚めたのも闇の中だった。
ただ、お堀の水とは違い、ぬるりと暖かい闇の中だった。
(ここぁどこだ?)
見渡したくとも息もできないぐらいそこは狭く、仕舞にゃぁぐにぐにと押されて外に吐き出された。
(まぶしい……)
闇の中で慣れていた目がしぱしぱする光の中、音が遠く遠くに聞こえた。何かが鳴いてるような声がする。隣長屋の猫か? それと、激しく走ったみてぇな息遣い。
「あたし、パパを呼んでくる!」
誰かがそう言って扉を開ける音がした。光がさらにまぶしくなる。金錆臭い空気が外に漏れ、代わりに草の匂いが入ってぇきた。
事態が呑み込めず、あたりを見渡そうとするあっしの顔を誰かが覗き込む。
「無事に生まれたわいな。元気に泣きよるわいな。男の子だわいな」
まばゆい光を遮るようにして覗き込んだその顔を見て、あっしはもっぺん心の臓が止まる心持がした。
そのしわがれた、けれど慈愛に満ちた優し気な老婆の声は、犬の口から洩れ落ちってぇたからだ。黒い毛並みに真っ白な毛が眉のように生えた犬は、肉球の手であっしを壊れ物のように優しく撫でた。
「坊もよぉく頑張ったわいな。さぁもうひと踏ん張り。体を清めてママにそのお顔を見せてやろわい」
な、と犬の顔の老婆が言うより早く、扉がけたたましい音を立てて開く。そして、ほぼ同時にあっしの景色がぐりんと入れっ違った。
「無事に生まれたか! しかも男の子か!!」
あっしを掴んで持ち上げる男は樺色のくりんくりんの髪に芥子色の目をしていて、酒精の匂いもしないのに赤ら顔だった。
うぇ、それにしても腹ぁの圧迫感がすげぇや。あと、高ぇ。お城の天守閣もかくやってぇ高さだ。目ぇが回ってきやる。
吐く、と思ってぇいた矢先、肉球付きの手が優しくあっしを包んだ。刹那、
どごん!
えれぇ音がした。あと、えれぇ景色を観ちまった。
「こんな首も坐っちゃいない赤子をあんなふうに扱うやつがあるわいな! 殺す気わいな!」
「す、すみません」
毛、逆立ってらぁ。牙も剝き出して文字通り吠える老婆は近くで見るとおっかねぇ。まともに睨まれてる男ならなおさらてぇ道理だ。
しかも、この老婆、今、背なが倍近くあるこの男より高く飛び上がってあっしを保護しつつ……天狗も目をむく見事な蹴りを脳天に落としやしなかったか…? その上であっしに衝撃を与えない柔らかな着地は、さすがとしか言いようがねぇや。
「まったく! これだから図体ばかり大きくなった坊主は質が悪いわいな。後でいっくらでも顔を見せてやるから、今はその有り余ったエネルギーを湯を沸かすのに使いわいな。声を落とせるぐらいに落ち着いたらもう一回入っておいでなわいな」
「はい……分かりました……」
クゥン、と聞こえそうなほど情けなく背なを丸めた男がとぼとぼ出ていく。生えちゃいねぇはずの尾っぽが股の下にくりんと丸まって見えた。
「騒がしてすまないわいね、坊。どこも損ねちゃいないわいね? ……あぁ、よかった。強い子だわいな。さぁて、産湯に浸かろうわいね」
「ヒィウィさん、すみません……」
もう一人、聞きなれない声がした。今度は女人の声だ。
ヒィウィと呼ばれた犬の老婆はかぶりを振って『あんたは余計なことを考えずに今は体を休めるのが仕事。これは産婆である儂の仕事わいな。気にすることはないわいな』と笑んだ、と思う。犬の表情だから、ちいっとばかし自信がない。
その間もぬるま湯に尻と首を支えながらあっしを浸からせて、湿らせた柔らかい布であっしの体を拭いていく。手際がいい。なんてぇか、『おっ母さん』っていう言葉を人の形……犬の形? に整えたらこんな風になるのかもしんねぇ。
犬の産婆は柔らかく目元を細める。
「強くて元気で……運のいい子だわいな。生まれて早々あの高さに連れてかれたのならば、天の女神さまもお前の顔をよっくご覧になったわいな。次は地の男神様にご挨拶しようわいね」
子守歌のように柔らかな声音で、老婆は「地の男神」に歌を贈った。念仏……いや、外ツ國じゃぁ讃美歌というのだったか。
その間もひとっつも手を止めなかった産婆はあっしの体に粉をはたき、最後に柔らかな布で包んだ。
「さぁ、これでキレイになったわいな。早速、ママにお顔を見せてやろうわいねぇ」
「あの、ヒィウィさん……あたしも赤ちゃん、見ていい?」
そこでもう一つ声が増えた。いや、最初に聞いた声はこの女の童の声だったような気がする。
産婆は(たぶん)笑って少女を手招きした。
「いいとも。静かに入っておいでなわいな。ママの隣に……そう」
そうして、抱きかかえたあっしをそっと二人の視界におろした。
「さぁ、坊。初めましてをしようわいね」
そうしてあっしが見上げた先、稲穂色のまっすぐな髪に海の目の色した女人と、同じく稲穂色のくりくりの毛をした芥子色の目をした女児がいた。
「ママとお姉ちゃんわいね」
それが、今世でのあっしの家族との出会いだった。
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