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運命の再会の話
平太だったからの頃の記憶を握ったまんまの時間の流れはじれったいほど遅く、この体はようやっと三つを数えた。
七つまでは神のうちってんで、まだまだ油断はできやしねぇが、それでも日々ちぃっとずつでも思ったように動かせる体ってのはいいもんだ。この調子で蕎麦が打てるぐれぇのん身体に仕上げてきゃぁなぁ。
そのためには一に飯、二に運動、それに睡眠だぁな。
今日はあいにくの雨模様だが、五つ上の姉さんと絵描きに興じるのはそれだけで三つにはなかなかの重労働だ。どうせだから、どういう屋台にしたいか図面に起こしてくのも乙なもんだろう。
隣では鼻歌を歌いながら姉さんが熱心に『正しく』絵を描いていなさる。
「姉ちゃ、なぁに、それ?」
頭は滑らかだが、口はまだまだそうはいかねぇ。舌っ足らずなしゃべりにむずっがゆくて顔から火が出っちまいそうだが、これもまた修行と思やぁ……まぁ……。
「これ?」
姉さんはあっしに見えやすいように用紙を広げて見せてくださる。
「こないだ見たお姫様とお馬さん。どう?」
紙の上には花嫁行列の様子が写ってた。つい先だってよその町からお貴族様のお姫様が輿入れなさったっつって夕餉の話題になってたな。あっしは行けやしなかったが、母さんと一緒に東門近くまで見に行った姉さんがひどく興奮した様子で帰ってきなすってたっけか。
よっぽど印象に残っていなさったんだねぇ。
「上手ねぇ」
拍手するのも精いっぱいの小さな体だが、あっしの賞賛は姉さんの気分を揚げるのに一役買えたらしい。
「でしょう?」
薄っぺらい胸をこれ以上ないほど張って見せなさる。微笑ましいや。顔も色も何もかも似ちゃいねぇが、妹も褒めてやるとよくこんな顔であっしを見てきたっけねぇ。
いやしかし、身内贔屓もあらぁが、本当によく描けていなさる。四頭立ての立派な馬車もその中においでなったお姫様の服の模様まで、よぉく観てそれを色も鮮やかに事細かく描き起こせるのは一種の才でやしょう。まだまだ童らしい拙いところもありやすが、景色までこんだけ描けるなら上々。
あっしぁ絵のことなんざちぃとも分からねぇ素人でありやすが、ひょっとしてひょっとしたら姉さんはひとかどの絵描きになれるんじゃぁありやせんかね。
「フローラ、ペーター、ご飯よ。お絵描きはおしまいにして降りてらっしゃーい」
「はぁい! ペーター、行こ」
「へぇい」
階下からは香ばしい匂いが漂ってくる。現金なもんでそれを自覚した途端、腹の虫がくぅと鳴きやがる。千鳥足の危なっかしい足取りで何とか階段を降り切るとちょうど食卓に昼餉が並んだところだった。
椅子によじ登る。
「わぁ、ガレットだぁ!」
姉さんが喜色のはらんだ声を上げなさる。姉さんの好物でやすもんねぇ。
早速手を伸ばす姉さんの手を母さんがぴしりと叩いた。
「ダメよ、フローラ。まずは地の男神様にお礼を申し上げなくちゃ」
「……はぁい」
こっちでは『いただきます』は言わねぇ。代わりに地の男神様にお礼を言うのが習わしらしい。
この世界には天の女神様と地の男神様の二柱がいなさって、それぞれにお役目を持っておられるそうな。あっしらに食うものを用意してくださるお仕事は地の男神様がなさっている、てな具合。
他にも種族ごとに崇める神様が違うとか、人族だけが事情があって二柱とも拝んでるとか……細けぇ話があるようでやすが、子供の体のあっしにはまだそのあたりまでは教えてもらえてねぇんでさ。
「『いだいなる地のおがみ・ドロクティア様。ほんじつもわれらにかてをおめぐみ下さりありがとうございます』……ねぇ、もう食べていい?」
「はいはい、どうぞ。ペーターもお姉ちゃんみたいに言えるかしら?」
「『でぇな、ちのがみ・どろくちあ? さぁ。ほんじちゅ、も、われりてをめーみって……ありがて、ぞーじやす』!」
続いて口にしてみるものの、耳に入ってくる言葉は思ってるもんとは天と地ほどもかけ離れた文言でやした。
顔を見合わせた二人はそのままぷっと噴き出す始末。
「ペーター、全然言えてなーい」
「ふふっ、ペーターにはまだ難しかったかしらね」
くぅ……。覚えては……覚えてはいるんでやすよ? ただ、この体でやすと長々とした口上はなかなか難儀というか……。
……いいや、言い訳なんざ男らしくねぇ。……精進しやす。
はぁ、こんな調子じゃぁいってぇいつになったら蕎麦の材料探しに出られるようになるんだか……。焦りは禁物、急がば回れったぁよく言いやすが、先は長ぇや。
そんな具合で決意を新たにしてたら箸……いやさ、突き匙が疎かになってたらしい。皿に半分以上残ってたガレットが横からひょいと浚われた。
「ペーター食べないなら、もーらい」
あー、姉さん、自分の分じゃぁ足りやせんでしたか。
「こら、フローラ! お代わりならキッチンにまだあるのよ。弟のを盗らないの!」
慌てて母さんが取り返そうとするのを止めてやる。
いいんでやすよ、母さん。姉さんは育ちざかり、そりゃぁ腹の一つや二つも減るってぇもんでさ。子どもがくいっぱぐれてひもじい思いをするなんざ哀しいじゃぁありやせんか。
あっしも食い物屋の端くれ。そんなのは見過ごせねぇ。たぁんと食いなせぇ、食いなせぇ。
「何を言ってるの、ペーター。あなたもこれから大きくなるのよ」
……はっ、そうでやした。この身体はまだ童っつってもおかしかねぇんでやした。こいつぁいけねぇ。
前世がどうたら…てな話を今の家族にする気は毛頭ありやせん。どう説明すりゃいいのかも分からねぇし、そもそも信じちゃもらえやせんでしょう。
せっかく縁あって家族になれたんでさ。おつむの違った倅、気狂いの弟がいるだなんてご近所さんに知られたりしちゃぁ面目も立たねぇ。
「ペーターってたまぁにおじさんみたいなこと言うよね」
おじっ……。
……前世でも半人前でやしたあっしは所帯持ちにゃなれやせんでしたもんで息子も娘もいやしやせんでしたが……。いや、でも、今の姉さんから見りゃぁ歳だけはご立派なおじさんかもしれやせんが……。
いけやせん。これ以上は墓穴を掘っちまいそうだ。
「おわわり、取ってくる」
ぴょいと椅子を飛び降り、厨に逃げ込むことにしやす。いったん頭ぁ冷やさねぇと。
普段なら『危ないから』と止められやすが、今時分なら火も落としてるでしょう。あぁ、いい機会でやす。この世界の調理器具でも拝見させてもらいやしょう。
キィー。
背ぇ伸びをして扉をなんとか押し開くと嗅ぎなれた、でもどこか違う厨が見えやした。ほぉ、異世界の厨ってのは煉瓦で石窯が組んであるんでやすね。この釣り具は鍋でも吊るんでやしょう。
こうしてまじまじ見るのは初めてでやす。こっちの台は焼き物とかに使うので? 羽窯を填める穴も薪を入れる穴もありやせんがどうやって火を熾したり煮炊きをするんですんでやしょう?
もっとよく見てみてぇや。
踏み台をずりずり引っ張ってきて覗き込む。
赤い石が嵌まってやすね。その上に五徳があるってこたぁここに鍋なんかを置いて調理をするんでやしょう。赤い石に沿うように小さな突起が二つ、造りからしてぶつかり合うようになってる? ……ってこたぁこれは火打石の一種でやすかねぇ? じゃぁ、この赤い石は? 木炭みたいに燃えたり?
まな板や包丁、玉杓子なんかは江戸のもんと変わりゃしねぇようだが……いくらかどう使うのか分からねぇもんもありやす。
ん? あれは……まさか?
「ペーター。キッチンには危ない物もいっぱいあるから入っちゃダメって言ったでしょう?」
近づこうとしたところで後ろからひょいと母さんに抱え上げられちまう。あぁ、母さん、待って! 待っておくれなせぇ!!
「母さん、あれ!」
「あれ? あぁ、あれはサラセン粉よ。今日のご飯のガレットを作るのに使ったの。あの粉をお水と卵で練って焼いて出来てるのよー」
興味を持ったのが分かったのか、抱えたまま母さんがその皿千粉…今あてずっぽうで漢字を当てたんでもしかしたら更科粉かもしれねぇ…に近付いてくれる。
恐る恐る手を伸ばした。指先に黒っぽい粉が触れる。
「っ!」
間違いねぇ、この感触。名前こそ違うが、あっしが見違えるわけも誤る訳もねぇ。
あぁ、ようやっと見つけた。異世界だからもしかないかもと心配しちゃぁいたが、全くの杞憂だった。この世界にも確かにあったんだ!
「~~~ッ!」
ちくしょう。視界が歪みやがらぁ。
「どうしたの、ペーター? おなか痛いの?」
慌ててあやしてくれる母さんをよそに、あっしは歓喜を噛み締めてた。
それは、夢にまで見た、そば粉、だった。
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