序章ーある1つの定義ー

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意気を無くした男の目はユラリと動き、アイズに背を向ける。 「邪魔をした」 男の言葉にアイズは目を見開いた。 「待て。逃げる気か?」 男は少しだけこちらを向く。 「もうここに用は無い」 「逃げられると思うのか?」 気迫を込めて脅すつもりが、気付けば男はこちらに刀を向けている。 いつ腰の鞘から抜いたのか。 その動作すらも認識出来なかった。 そして殺気。 肉体の一部の挙動も許さない程の威圧が男から放たれ、生存本能が悲鳴をあげる。 「勘違いするな。見逃すのは俺だ」 不可思議。 先程見せた稚拙な様相とは一線を画す存在感。 魔力すら微塵も感じさせないが、まるで喉元に切っ先を突き付けられていると錯覚する程の殺気だ。 「追手をかけるのも人を呼ぶのも好きにすれば良い。だが、その選択をするのなら覚悟はしろ。俺は必ずお前に報復をする」 たった一人でありながら、実現させるだけの胆力があると思わせるそれに、アイズは狼狽えた。 ーーダメだ。 ーー勝てる未来が見えない。 その感覚は経験則から知っている。 おぞましい程に底が見えない敵と相対した時の、確定的な敗北の未来視。 アイズは両手を上げる。 「まいったまいった。私の負けだ」 あまりにも唐突に雰囲気を変えたアイズに、男は少しだけ目を細めた。 「追手はかけない。人も呼ばない。私は自分の命が一番惜しいからな」 アイズはあっけらかんと言い切って、ドカッと椅子に再度腰かけた。 「ただ、これも何かの縁だ。一つだけ質問に答えてくれ」 男は刀を鞘に収め、無言でアイズを見ている。 それを許諾と受け取って、アイズは笑みを浮かべた。 「何故殺さない?確かに無意味だが、少なくとも君にとって私は復讐の矛先に成り得る存在だぞ?」 男は問いに少しだけ視線を下げ、直ぐに戻した。 「無駄な殺しはしない。里の掟だ」 「復讐する気はないのか?」 「それも無駄だ。別にお前を憎いとも思わないし、殺した所で爺ちゃんは帰って来ない」 答えて男は「おい、質問は一つだけだと言っただろ?」とアイズを睨んだ。 「爺ちゃん」という発言が気に掛かったが、これ以上は難しいかとアイズは息を吐く。 「すまんすまん。私の悪い癖だ」 悪びれる様子もなく飄々として宣うアイズ。 少年がそれに対して何か言おうとしたのか、視線を動かした時だった。 「すみません大佐。珈琲を切らしていたようで、紅茶ならーー」 思わぬ声にアイズが目を向けると、エリーがカップを手にテントから入ってくる所だった。 ハッとしている様子のアイズにエリーは立ち止まり、「大佐?」と目を丸くする。 「どうかされましたか?」 問い掛けにアイズは答えず、即座に視線を男へと戻す。 消えている。 忽然と、初めから誰も居なかったように。 ーー何処から、どうやって? 「大佐?」 再度エリーが呼ぶので、アイズは思考を止めた。 「すまん。考え事をしていてな」 視線をエリーへと戻し、「紅茶で構わない」と微笑む。 しかし、エリーはアイズを見つめて少し驚いた顔をしていた。 「大佐。首から血が出てます」 先程の物かと思い出す。 どうやら、短い夢では無かったようだ。 駆け寄ろうとするエリーをアイズは制止する。 「少々、爪で引っ掻いてしまってな。寝惚けていたようだ」 出血もさほど無い事に加え、アイズが再度微笑んで言うのでエリーは安堵した。 「化膿するといけません。消毒をしますので、お待ちください」 エリーはカップをアイズのそばのテーブルへ置くと、直ぐに踵を返す。 大袈裟なと思ったが、エリーの性格上止める方が面倒なので見送る。 しかし、「エリー」と声をかけて足は止めさせた。 「はい?」 振り向くエリーに、アイズは眉尻を下げながら自嘲して笑む。 「私は、上層部の気持ちが少しだけ分かったような気がする」 言葉に、エリーは大きく首を傾げた。
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