第3章ー死に花は咲かずともー

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途絶えぬ苦痛が、サーシャを襲っていた。 幾度も繰り返されるのは、幼少時代に誘拐された際の酷い扱いと、記憶に新しいカリオンの死。 流す涙は枯れ果て、頬に跡を残している。 叫びも最早枯れ、執拗に渇いた喉を突き刺す空気が何度も咳き込ませる。 服は前面が濡れていた。 幾度吐いたか分からない。 鼻をつく胃液の香りが、焦燥すらも許さないとサーシャに覚醒を促す。 精神は最早限界だった。 なれど付けられた魔道具の影響か、気絶はさせてくれなかった。 (ーーもう、やめて) 懇願が思考を巡る。 (ーーもう、楽にして) 救いを求め願えば、唐突に頭部が熱を帯びた。 「ーーッ!?」 突如として脳を掻き回されるような感覚と激痛。 叫びもあげられず、のたうつようにサーシャは体を痙攣させる。 次第に口から泡を吐き始め、急激に痛みが消えた。 訪れたのは、嘗て味わった事のない程の多幸感。 脳を支配する幸福を求める信号が、サーシャに不気味な笑みをもたらせた。 委ねてしまえば、天国にでも居るような心持ちだ。 全身が弛緩し、椅子に凭れ、意味も無い笑みを溢す。 下腹部が濡れ、その水が椅子を伝い床に広がった。 サーシャの考える力は、既に何処にも存在しない。 抗う意思も持たず、己の脳に叩き付けられる情報を受け入れた。 すると唐突に、頭に付けられたそれを外す存在が現れた。 取り払われて視界が広がれば、黒服の男が自身を見下ろしている。 空色の瞳には覚えがあった。 「ーースタン」 恍惚の表情のままに、サーシャは男の名を呼んだ。 スタンは己の顔を包む布を外し、「醜悪な術だな」と吐き捨てた。 そうして道具を放り投げると、左手でサーシャの顔に触れて近づく。 無機質な部屋に、ピチャッとスタンの靴が水を弾く音だけが木霊した。 「ふむ、ギリギリだったな。まだ焼き付いてはいない。ならば容易いか」 微笑むと、スタンはその左手でサーシャの頭を掴んだ。 「『術式介入(ハック)』」 サーシャが突如白目を向いて痙攣する。 「なに?」 スタンは眉を潜め、手を離した。 そして舌打ち。 「脳か。人間相手だと無理矢理は後遺症が残るかもしれない」 どうしたものかと思案し、溜め息を一つ溢した。 「許せ」 眉尻を下げて言うと、サーシャの座る椅子の端に膝をかける。 そうして、再度左手でサーシャの頬に触れた。 混濁した意識の中で、サーシャは己が接吻された事実を理解していた。 それは、とても優しいものだった。 ゆっくりと唇を離せば、サーシャの口から黒い靄が溢れ、スタンの口の中へと消えていく。 全て吐き出すと、サーシャは「カハッ!」と強く咳き込んだ。 スタンは靄を全て呑み込んで、軽く首を捻る。 「発動の安定性を考慮していない、脆弱な構築式だな」 つまらないと言いたげに吐き捨て、己の腹に右手を添えると、「『消去(イレース)』」と唱えた。
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