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銀雪を溶かせる想い Secret First Kiss
漆黒を照らす黎明。
それを霞ませるのは空も見えない深い紫紺の濃霧。まばらに並ぶ紅い木々の狭間を覆うので、迷いの森に相応しく仄暗い。視界は足元以外が心もとなく、恐怖心を煽るように闇が迫る。幹の紅葉達がざわざわと風無く音を立てる。
早朝の陽光を完全に遮断する極めて異質な森。流石は魔女の森というだけあって、相応な異空間が広がっている。
だが、毒霧というのは全くのデタラメ嘘八百であった。どうということはない、常時視界を遮るだけのもの。魔力を奪い衰弱させているのは、"魔女"の仕業による。魔女以外の特定の者には、一部の限られた範囲ではあるが晴らせるらしい。
そんな中、一人の足音が響く。枯れ落ちた葉の絨毯を踏みしめ、特に戸惑う様子なく地を突き進む。森の空気に何一つ動じていない。視界がほぼ失われた状況下でもなお、迷いのない足音がゆっくりやってくる。
ふと、足元は止まった。
「……」
「どーしたのー、ラナ〜」
肩に静物のように留まっていたのは、小鳥。硝子玉のような目が光る。毛並は鈍色。曇り空に擬態しそうな色合いの、何の変哲もないただの鳥……のはずだが、どうしたことか流暢に言葉を話しているのである。高く明朗快活な声を響き渡らせる小鳥は、この状況においてはあまりにも不釣り合いだ。
硝子玉を曇らせ、留まり木の人間に目をやる鳥は傾いで趾を浮かせている。
歩みを止めた人間は指をパチッと鳴らした。
辺りの霧が応えるように晴れ、視界がクリアになる。
「……」
「ありゃりゃ、急に止まったかと思えば、なーるほどぉ! ラナもびっくりーだね」
鳥は硝子玉の目をぱちくりさせて勝手に盛り上がっている。
「なんとなく、当てもなく散歩してみたらー。変わらないはずの景色に、見慣れぬものの気配がしたもんねー。納得〜」
立ち止まって人間と小鳥が同様に視線を向けている前方には、倒れている人間がいた。
「どーするかねー。魔女様ーに報告してみるかーい?」
「……」
瞬きなく小鳥に目配せする人間は、まるで人形のような美少年である。
髪は闇に染めたような漆黒。ストレートボブに切り揃えた髪。同じく前髪も歪みを許さない。
瞳は紫。さしずめ、アメジストを嵌めたようだと言える。吊り目はキツい印象だ。
しかし、その紫の輝きは右目のみ。左目は美しく透き通る虹水晶。
整った見目でありながら、もの静かに佇む少年は洋画のようにミステリアスだ。
「……」
少年は唇の前に人差し指を当て、じっと小鳥を睨みつける。
いまいちピンとこない小鳥は、落ち着きなく首を傾げるが……
「わかったよー。魔女様には秘密ねー、秘密ー。了解だよぅ〜」
コクコク頷いた小鳥に当然だと鼻を鳴らす少年。腕を組んでしばし考え込んだ後、倒れている人間にもっと近づいていく。
かがんでその人間の顔を眺めていると、小鳥が嘴で鬱陶しくつついてくる。
「おおー、ラナもかわいい女の子に興味があるんだね〜、見惚れて絶句なんてめっずらしぃ〜」
「……」
ギリッと小鳥へ縮こまる程の眼光を向ける。
「うむむ、調子乗っちゃったな〜。ごめんよーラナ」
このがっくりとした小鳥は、果たして反省しているのだろうか。生意気に囀る小鳥に、懐疑的な視線を送っていた少年は音なく溜息を吐く。
「……」
「ほえぇー。まるで、雪のように綺麗な白銀だな〜。髪も肌も雪みたいー。ぴゅぅ〜♪」
倒れた少女を見て、そう感嘆するのは小鳥である。小鳥は少年の肩で、硝子玉を輝かせてご機嫌に口笛を吹いている。
少年は横たわる少女の顔をじっくり見る。確かに、白銀の髪は雪のようである。珍しいと興奮気味に言う小鳥の気持ちも理解できる。閉ざされた瞳と口。全く動かず、起きる様子もない。もしや死んではいまいかと手をとり、脈を確認してほっと一瞬表情を綻ばせた。とはいえ、躰の冷たさにはぎょっとした。
この少女に何があったのだろう。
訝しげに目を細める少年。深い紫と透明な瞳は悩ましげに少女を写す。
「……」
「どーするかい、ラナ〜。この激かわな美しい娘だけどもさー」
少年は小鳥に何の反応も示さず、微動だにしない少女を躊躇なく抱き上げた。両腕で大切な荷物を抱えるようにそっと立ち上がる。横抱きして、顔色も変えずにすたすた歩く。
美少女を運ぶ美少年の構図は非常に絵になった。年の差もあまりないであろう男女。眠る少女は絵本の姫君のようで、少年のほうはクールで大人びた様子だ。あまりにも美麗で目の保養になる。
意外と体力があるのか、羽のように軽いとばかりに涼やかな目。
「……」
「軽々と抱えて黙々と運びやがって〜このぅ。不本意ではあるが、お似合いじゃないのー」
肩にちょこんと乗って、ノリノリでからかう小鳥。
「一目惚れしちゃったのか〜? 確かに……本当に可憐なお嬢様だよねー。倒れるとは可哀想だよ〜」
少年は姦しいと顔を顰める。
「まっ、おれにかわいげはないけどね〜! でも話し上手だし、かっこいいだろー? 憧れて敬ってもいいぞ〜」
小鳥のくせに、偉そうに粋がっている。
「……」
「それにしてもさー、この娘から凄く強い光の魔力を感じるね〜。もしかしたら、ラナの声も治せるかもよー。どんな呪の代償でも、雪のように輝く一族ならば癒せるのさ」
「……」
「この娘、恐らくスノーシャイン公爵令嬢だよ。こんなところで意識を失って倒れているなんて、只事では済まないよね〜。おれらにとっては幸運で好都合だけど、彼女は何故迷い込んで来たんだろー」
目を閉じて考え込む小鳥を他所に、少年は少女に釘付けになっている。魔女の森には殊更珍しい、美しい迷い子。
「……」
「魔女様に見つかったら、たーいへんだよ〜。あの人は美しいものが大好きだから、絶対放っておかないよー。美貌の来客は逃すまいと独り占めされちゃう〜。もしかしたら、実験対象にされちゃうかもよ。あの人見境ないもんなーマジでヤバい」
「……」
勝手に盛り上がるな、とラナは静かに息を吐く。面倒なことは勘弁してくれ、と言わんばかりに。
魔女は噂通り、美しいものには目がないようである。
「おれらは仲間というより、秘密を共有する共犯者なの。面倒な魔女様を師に持ち、四苦八苦する者同士だ。だから、おれはラナを応援する〜」
なんやかんや、少年とは悪友である小鳥。
「このクラウディ様は、ラナイェッタの相棒兼用心棒だからね……って、無視するなよー。心外だなぁラナ」
「……」
「さて、ラナ〜。これからどーしようか」
曇天に霞みそうな色合いの小鳥はクラウディ、人形のような美少年はラナイェッタというらしい。
一羽の小鳥と少女を抱える少年は、森の迷宮を止まらず進み、てくてく歩いていく。
これより先に真っ直ぐ進めば、荘厳華麗で古びた大きな洋館があるのだが、生憎……少年は魔女と鉢合わせたくはないので、別の場所を目指している。
辿り着いた先は、立派な洋館とは比較にならない小規模な小屋。
「取り敢えず、こっちのほうに来たわけね〜」
「……」
少年は慣れた様子で小屋に入る。馴染みのある木の温かな香りが広がる。手入れが行き届き不自由のない広々とした空間だった。外が魔女の森とは思えないくらい、明るく落ち着いた場所である。
ラナは扉を開いて、ある部屋の前に来た。
「我が主よ、お帰りなさいませ。その者は客人ですか……? 鼻腔をくすぐり、喉から手が出る程の膨大な魔力に満ちておりますが」
声は足元から聞こえた。優美に話すのはそこにいる一匹の小型の狼だ。
毛並はラナのように漆黒。黄金の眼光は威圧感がある。こちらは小鳥よりも気高く、仕草も語りかける声も紳士然とした獣だ。
「猫より大きい犬もどきみたいな使い魔のヘル君じゃないか〜」
「煩わしい小鳥如きが……高貴な我をそのように呼ぶとは、恥をしれ」
挑発する小鳥と威嚇する狼は、ガンを飛ばし合う。
「我が名はヘルギアノン。貴様よりも遥か格上であることは紛れもない事実なり。小鳥め、立場をわきまえよ。親しいからと言って気安く呼ぶな、不快だ」
「実はおれのほうが、格上だったりするかもよー? 案外、見た目だけで軽率に判断できないものさ。おれのような奴が、意外と、とんでもない力を秘めていたりしてね。洒落にならないぞー、多分」
「やれやれ……減らず口は聞き飽きた。もう沢山だ。毎度のことだが、貴様がなにを言いたいのか、我でもさっぱり理解できない」
ヘルギアノンとクラウディは反りが合わず、しょっちゅう火花を散らすのは日常風景だ。とりとめのない喧嘩で白熱するライバル同士である。
「ケチだなあー」
狼は小鳥を一瞥した後、ラナに向き直る。
「いかがなさいましたか、主。贔屓目を差し引いても強大な魔力を有す娘を抱えておられますが」
「……」
辟易させられる小鳥は放っておいて、ラナは使い魔に声なく命令を送る。
ヘルは恭しく従う。
「ええ、承知。その者は取り敢えず様子を見るべきでしょう。こちらへ」
「ヘルギアノンの主君想いは相変わらずだなぁ〜。おれだってな、ラナを――」
「クラウディ、いい加減黙りたまえ……! 場違いは他所に消えろ」
「むっ! プイッ……!」
苛立つ狼にちぇっと臍を曲げる小鳥の図。顰蹙を買い、ようやくクラウディは黙った。
「主、その少女は森に倒れていたのですか?」
「……」
静かに頷くラナ。
「さようでございましたか。――少女は一旦、布団へ横たえて寝かせておきましょう。こちらが客人用の寝室です」
狼は主の肩でぷりぷり怒っている小鳥を、空気のように気にしないで話す。小鳥如き相手にする間も惜しいと言いたげである。
歩に合わせて親切な案内をするヘルは、主を客室まで丁寧に導いた。ラナが触れることなく勝手に扉が開く。中に入るが、完全に閉めると音が響きそうなので、少し隙間は開けている状態にして。
窓のない室内を見渡せば、シンプルなチェストとベッド、それにテーブルとチェア。最低限のものが整然と並んでいる。スノードロップの植木鉢が一つ、壁棚にひっそり佇んでいる。
ラナは少女を慎重にベッドに横たえ布団をかけた。かための枕とベッドに沈んでも、未だ静かなままである。
ベッドの傍にチェアを置いて腰掛けるラナ。
一呼吸のしばしの間を置いて、ヘルは幾つかの疑問をラナに問いかけてみる。
「主はこの娘と会ったことはあるのですか?」
「……」
首を横に降る。
「会ったことはない、と。――では、一方的に知っていますか?」
「……」
ラナは長い睫毛を伏せて、ゆっくりと頷く。
「……」
「――な、なんということです…………願い求めた存在を見つけたというのですか……!?」
「……」
ずっと黙っているラナ。その心境の全てを見通しているかのように、ヘルは驚きに目を見張り言葉を無くす。
「こんなに美しい娘、魔女様に取られたら勿体ないよねー。見つかると減るってば」
「愚問ではありますが……この者は主にとって大切な方なのですか?」
「……」
ラナはほんのり頬を染め、銀雪の娘の長い髪を梳き軽くキスを落とす。
「流れるような仕草で見せつけてくるじゃないかーラナ」
そして少女の左手をとり、その甲にも優しいキスが降る。
「気に入ってるんだね〜〜ラナを魅せる何かが、この娘にあるのはわかったよー」
小鳥が楽しそうに眺める中、ラナは少女の左手を凝視して、何かに驚いている。
少女の左手には妙なものが浮かび上がった。
「これは……闇の紋章ですね……。一体どういうことなのでしょう。貴方様以外に、闇を司る者は潰えた筈では?」
「ほぉ~確かに闇の呪縛がかかってるねえ。それも、本当に強烈な呪い。ラナじゃなきゃ判らなかっただろーなー。何せ、ラナは凄い奴だもんね〜桁違いに」
「口を慎め、小鳥。例えそれが事実であろうとも、心に秘めておけ」
「わかったってば」
クラウディはヘルをごく自然に受け流す。
「――――でもさぁ思うんだけど、目覚めない理由って恐らく闇の紋章のせいだよねぇー」
「……」
微妙な空気。それが徐々に重くなっていく。
「片目と声を引き換えにしたとはいえ、過去を覗く力を得て……その上、閉ざされた陰闇の一族最後の後継者。孤児とはいえ、天に見放されたとしても、"魔"に連なるおれらにとっては唯一の存在。それがお前だ」
「――その通り。主のみが、我らの頂点であらせられます」
「……」
「そんなラナが、や〜っと気になる女の子連れてきたのに……どーして闇の呪縛がかけられてんだろうなー。普通なら気付かないっての。お前以外の誰かがかけたのは確実だけど――闇属性の呪術はかけた本人が死ぬまで解除できないってのは厄介よな〜」
「主、どうされますか。この呪は、死を引き寄せる術の類では最も悪質なものです。死を呼び、相手を確実に殺すためにかけたのでしょう。なんと残酷な……」
ラナは目の色を変えた。目は殺意と怒りの炎に燃えて澱みが生じる。
「主。我は貴方様の使い魔でございます、いつなりとお使いくださいませ」
狼の従者は、怒れるラナに冷静に声をかける。
「……」
ヘルに何やら指示を出したラナ。言葉にせずとも、主の命令は使い魔に伝わるのだ。
「は、仰せのままに。外界を探れとの命、承りました」
指示を受けたヘルは、瞳の黄金をこれでもかと鋭利に尖らせ、闇に溶け込むように姿を消した。
「ヘル君は、影の遣い。姿を闇に忍ばせて、必ずや情報を得てくるはずだよ〜」
クラウディはヘルをからかってはいるが、信頼は寄せているようだ。力を認めて一目置いている。
「おれはどーすればいい、ラナ?」
「……」
ラナは発せない声の代わりに不敵な笑みを返す。
「――その顔でわかったよ。は〜い、お邪魔鳥は失礼します。テキトーに何か探ってくるよ」
そう言ってクラウディは、曇り空の翼で小屋の外へと飛び出した。
「……」
部屋に少女と二人きりになったラナ。
ラナは森を出ることが叶わない身であり、今は情報を待つことしかできないのだ。
魔女や魔物とは意思疎通が可能だが、その例外である者とそういったコミュニケーションは不可能。筆談程度しか手段はない。
残念ながら、魔女の森では魔女の館以外で紙を用いることができない。紙は呪師が用いれば呪符にもなりえる。魔女はそういった事件を防止するため、館以外の紙の使用を禁止し、紙が消失するように術をかけたのだ。
不自由なものである。
ラナは過去視の為、代償にした左目と声が使い物にならなくなった。闇の対たる光の魔力であれば、一時的にでも……回復できはしないのか?
一縷の望みを込めて、彼は眠り姫の唇を衝動的に奪った。
その瞬間。心臓が高鳴る。
電流が走ったように、目の前が真っ白になる。
激痛のあまり額を押さえてしまう。酔ったように頭が重く気持ちが悪い。
光の魔力が滝のように一気に躰へ流れ込んできた。息苦しいまでに強烈な魔力。想像を凌駕した熱量にラナは咳き込む。
「ケホッ……コホッ……。はぁ、はぁ……」
ラナは少女から離れ、壁に手をつき息をなんとか整えた。
「この声、久しぶりに聞いた。僕の声って、こんなに低かったかな……」
信じられない、その一言に尽きる。
「――うぅっ…………」
感動に嗚咽する。長い間、泣くことなど無かったのに。今まで押し殺していた感情が、涙と共に流れていく。失ったはずの声で心の底から歓喜したのだ。
なんとか涙を拭い、ラナは深呼吸する。
「確かチェストに手鏡が入っていたはず」
ラナは裏返った手鏡を引き出し、そして。
鏡面を自身に向けたら……俄には信じられないものを目にしたのだ。
「!!? まさか、本当に……」
時間が止まったような錯覚だった。
鏡には先程まで居たはずの"ラナ"はいなかった。
"ラナ"とは、あくまで仮の姿である。
かつて、魔女の森に逃げ込んで身を晦ませ追っ手を撒く為、自身を変装させようと術をかけた。生き延びる手段は、他になかったから。その際、強大過ぎる魔力にコントロールが効かないというハプニングが起きた。
それにより、幼少期に絵画展で見て強く印象に残った"檻に咲きし黒百合の君"の美少年の姿になった。ポーカーフェイスで無機質な人形のように写った独りの少年。絵画をそのままに投影してしまったのだ。――絵画の中の少年と、己は皮肉にも境遇などが非常に酷似していた。
ひたすら、先の見えない濃霧の中を駆けていた。ずっと変わらないかと思われた景色の最奥に、当時は今より大きく感じられた洋館があった。見つけた瞬間、込み上げたのは恐怖と安堵。矛盾する感情に胸が張り裂けそうだった。
美しいものを好むという魔女の存在は、予てより情報はあったものの……はっきりとしたことはわからない。このときは賭けだった。何としても、可能性に縋るしかなかった。不格好な石ころには興味がなく、美しく磨きのかかった宝石のみを収集している魔女。怪しさ満点で、存在すら半身半疑だったのだが。……まさか実在しているとは思わなかった。空想のお伽噺程度の認識だったからだ。
――やっと魔女の館へ辿り着いた際、初めて出逢った魔女は目を見開いて自分にこう言ったのだ。
『ア・タ・シの初恋の方にそっくりねぇ。それはもう……美しくて。…………アナタと瓜二つだわぁ。きゃあっ、逸るオトメゴコロってやつね! アナタの名前は?』
初対面で早々に勢いに呑まれる。押しが物凄く強かった。厚化粧が毳毳しい陰気な老婆というイメージは瞬時にガラガラと崩れる。うら若く綺麗な変わり者の魔女だったので、噂は期待外れだと僅かに落胆してしまう。
カーテンのような墨色の髪は地につくほど長い。灰色の瞳は人懐っこく光っている。まるでクラウディのようだな、と感じた。
化粧はほんのり、ネイルや口紅も薄っすらとしている。肌艶も造形も化粧で隠すまでもなく美しい。
大ぶりなサークルピアスにリングネックレス。どちらもこだわりのラフィア素材で自ら手編みしたものだそうな。聞いてもいない自慢をされたが、どう返すのが正解だろうか。
『……』
『名前がないの? なんてこと! アナタは、きっとあの方……ラナイェッタ様の生まれ変わりねぇ……ホント美少年よぉ!! ラナって呼んでいいかしら』
『……』
話すと面倒だと、敢えて沈黙を貫いていた。魔女につかまったのは、悪運か、強運か。
このときから、己はラナとして魔女に気に入られてしまった。
『そーだわ。煩い小鳥が迷い込んで来たのよねぇ〜。曇天のように珍しい色合いだから、連れ帰ってきちゃったのー。お世話頼まれてくれる、ラナ?』
籠に入れられた悪友と、まさかこの場で顔を合わせようとは知る由もなかった。
『おーい魔女様、おれ逃げないから籠から出して…………って、おや、こりゃー幻覚かな??』
(!? クラウディか!)
『誰やねーん』
じと〜っと半笑いして見てくる、お調子者の小鳥。その腹立たしさたるや……
『あっはは〜。もっちろ〜ん……冗談だよ。相棒のお前を忘れたことなんかないってばー』
呑気なクラウディ。殴ろうとした手を引っ込めるのには気力を要した。
姿を見せないと思ったら、魔女に鳥籠へ押し込められているとは……予想だにしない。
『おれだっておんなじさ! つかまった末路が意外過ぎてぽかーん、だよ』
長い付き合いだが、悪友の拍子抜けする反応には慣れない。
『――ところでアナタ達、知り合いかしら?』
『悪友でーす』
『あら、そうなの。てっきりペットと主人の関係かと』
天然な魔女はクラウディの地雷を踏む。普段温厚な小鳥がブチギレる話題を、わざわざ真正面から悪気無く浴びせた魔女。
『なぁにぃい! おれに、今、なんて言った?!』
殺気で我を忘れかけるブチギレモードの曇り鳥。曇り鳥といえども、譲れない矜持はあるのだ。
クラウディの言葉を遮るように、惚けて割って入る魔女。
『そーゆーことなら、檻から出してあげます。ラナとクラウディ、仲良しなのねー』
こういった経緯で、クラウディと再会した。
魔女は自身と小鳥を殺さなかった。そればかりか、制御の効かない魔力を見かねて、暴走の危険がある魔力を完全に封じてくれた。しかもこの恩人は師匠として、魔力についてこれでもかと熱心に教えてきたのである。こうして、"ラナ"は弟子になったのだ。
師匠の賢才振りには頭が上がらない。潜在能力を完全に開化させる為に、修行に勤しむ重要性を説いてくれた。
洋館にある巨大な書架で、様々な本を読み漁り、掻き集める学び。その真髄にある喜びを知った。
過ごしていく内、魔女は帽子収集に夢中になっていることも知る。帽子だらけの部屋を見つけて仰天した。帽子ばかりが多種多様に部屋を彩っている。色も形も豊富で面白い。その光景を見るなり、魔女もとんだ物好きだなと思った。
――伝授されたあらゆる魔術の学は、極めて希少な体験で楽しい時間となる。
終始無言で心を無に徹して、集中を切らさず魔女様直々の授業を受けていた。一から叩き込まれる無数の英知。それら一つたりとも取りこぼさず糧にする為だ。みるみる知識を吸収し、次第に魔力の深層に惹かれていく。
そんなある日、魔女は机で居眠りをしていた。机に乗っていたのは、何やら怪しく分厚い本。革の表紙は真っ黒で、血のように鮮やかな赤文字で……"過去を視る"と刻まれていた。黒い鎖と錠がかかっていたので、禁術書だと容易に想像はついた。太く頑丈な鎖に縛られており、本を開く為には鍵を開ける必要があるようだ。
なんとなくその滑らかな革表紙に指を乗せてみた。
たったそれだけだが、なんの前触れもなく鎖が蛇のように解け、鍵が勝手に回って本が解錠されたときは焦った。
(――嘘だ。何もしていないのにどうして封印が難なく解けたんだ?)
師匠である魔女様の呟きを回想する……
『これはね、限られた人間のみが開ける伝説の本なんですって。封じられた開かずの本。鍵を開けることができた者はいないらしいわよぉ』
しかしほんの好奇心で、その本を開いたばかりに、急速に自分の運命は変わった。
禁断の扉に触れた時点で、己を失った。一気に本へ引き摺り込まれたような感覚だった。
『キサマハ……ヤミノ、カミ、ナノカ? ウツワモ、ソシツモ、ジュウブン。マモノニ、スカレソウナ、アンコクノ、ケハイダ。キサマノ、マリョクナラ、カギナンテ、イミハ、ナサナイネ』
(貴様は……闇の、神、なのか? 器も、素質も、十分。魔物に、好かれそうな、暗黒の、気配だ。貴様の、魔力なら、鍵なんて、意味は、成さないね)
『どういうことだ、本に触れただけなのに……ここは何処だ。真っ白い世界に放り出されたような……』
『ソウダ。ココ、ホンノナカ』
(そうだ。ここ、本の中)
正直、なにが起きているのか、よくわからなかった。
そんなときだ。語りかける奴が、懐かしいものを見るようにニヤリと目を細めた。
『マルデ、ヴィクトレージュ、ノサイライノヨウダ』
(まるで、ヴィクトレージュ、の再来のようだ)
『え、ヴィクトレージュって……僕の祖父の名か!? 知ってるのか、あの人のことを!』
死んだ祖父のことは、あまり知らなかった。片手の指で足りるほどしか逢っていない。どんな声をしていたのか、聞いたはずの言葉さえ……よく思い出せない。
『コタエルギリハ、ナイ。オワッタカコヲ、ムシカエスツモリナド、ナイ』
(答える義理は、ない。終わった過去を、蒸し返すつもりなど、ない)
色のない白一色の世界に、黒い靄のような奴が口もないのに話し掛けてくるのだ。猫目がぎらぎらと紅く光っていて、得体の知れない恐怖を植え付けられた。
『デハ、コノホンノ、セイヤクドオリ、トリヒキヲセヨ』
(では、この本の、誓約通り、取り引きをせよ)
『え?! 取り引き……? そんなのよく、わからないよ』
『モシ、コウショウケツレツ、スルナラバ、キサマノイノチ、ココデツイエル』
(もし、交渉決裂、するならば、貴様の命、ここで潰える)
『!!!』
『キサマ、カコヲミルチカラニ、キョウミハアルカ?』
(貴様、過去を視る力に、興味はあるか?)
品定めするように揺れる紅い目。血のように鮮やかで不気味だ。怖さの権化としか例えようがない。
『凄く興味はあるけど……』
『ナラバ、カギヲアケタ、キサマニハ、カコシノチカラ、テニイレルシカクガアル』
(ならば、鍵を開けた、貴様には、過去視の力、手に入れる資格がある)
『本当に……?』
『ホントウダ。ウソハナイゾ。エルカ、ステルカ、イマココデ、エラブガイイ。ヘントウハ、ヒトツキリ。アトモドリハ、デキナイ。セイヤクハ、ホンヲヤイテモキエナイ。カクゴハアルカ……?』
(本当だ。嘘は無いぞ。得るか、捨てるか、今ここで、選ぶがいい。返答は、一つきり。後戻りは、できない。誓約は、本を焼いても消えない。覚悟はあるか……?)
『もしも、力はいらないって跳ね除けたら……どうなるんだ?』
『ソノトキハ、モウココニハコレナイ』
(その時は、もうここには来れない)
それが意味するところは一つ。ここで過去視の力を諦めたら、二度と手にする機会は失われるということだ。
『二択なら欲しい一択だ』
自身は迷いなく決断した。――思えば、動揺して……黒い靄のような奴の言うことを鵜呑みにし過ぎていたなと今でも思っている。
『ニドメハ、ナイトイッタ。コレニテオワリダ』
(二度目は、無いと言った。これにて終わりだ)
靄が嬉しそうにニヤついて、後になってこう言うのだ。
『チカラヲステレバシニイタリ、エテモダイショウハツキマトウ』
(力を捨てれば死に至り、得ても代償は付き纏う)
『な、なんだって?! それを先に言え!』
『イマサラナニヲイオウトモオソイ。キカナイキサマガオロカナダケナノダ』
(今更何を言おうとも遅い。聞かない貴様が愚かなだけなのだ)
『!?』
『ナツカシキトモノオモカゲニメンジテ、ダイショウはカルクシテヤル』
(懐かしき友の面影に免じて、代償は軽くしてやる)
影の塊が、ニタリと目を歪ます様子に怖気が走り思わず震えた。
…………本当に? 信じていいのか?
『セメテモノオンガエシダ。ウケトルガイイ』
(せめてもの恩返しだ。受け取るがいい)
化け物が投げて寄越してきたのは、小さく光るものだった。鮮やかで美しい宝石が星のような輝きを放つ。……これは、ピンクトルマリンの指輪だ。つまり、どういうことだ……?
『サラバ。モウニドトアウコトモナイデアロウ』
(さらば。もう二度と逢うことも無いであろう)
『待て、まだ……話が……』
最後にそう言われて、意識の糸が力無く切れ……目が覚めれば。
本の世界のおかしな化け物とした会話のうち、ヴィクトレージュに関する内容のみを忘れた。不自然に抜け落ちて欠けた記憶は、ついぞ戻らずだ。思い出せたのは、なぜか指輪を投げられたことのみ。それにしても、変な奴だった……。
『ラナ、ラナ、よかった……起きたわ……心配したのよ〜ぅ』
しくしく泣いている師匠。普段の嘘泣きではなく、本気で泣いていたようだ。
『ところで、過去視の本を知らない? 気づけば失くしてしまったの……』
心当たりしか無いのだが。
『確かに置いておいたのよぉ? 影も形もないんだから、びーっくりしたわぁ』
起きた魔女に肩を揺さぶられ、なんとか禁書から意識を取り戻して以降。どうやら片目は失明した虹水晶になり……声は一音たりとも、本当に出せなくなってしまったのである。なんと中途半端な代償か。
魔女の森に来てからというもの、意図的に黙って過ごしていた。声は魔女に聞かせたことは無い為、魔女には目だけが変わったように見えただろう。
とはいえ、代償の重さに肩を落とす間もなく魔女に目を向けてみれば――
『――アナタが倒れたとき、怖かったわ……! 何か大きな音がしたかと思えば、アナタが意識を飛ばしていて……目眩がするようだったわ。また置いて逝かれると思って…………幸い気絶だけで済んでたけれども――無事で、よかったぁ……』
いつもポジティブな魔女は、涙で赤くなった目元を擦り……弱くか細い声で言う。笑顔が痛々しかった。
『ところで、ラナ……その目、虹水晶のようね。なにか力に目覚めたとか!? わくわくよ!』
『……?』
『それに、握り締めたアナタの手の中から、濃い魔力を感じる。どうやら、ホントに本の世界を旅していたようね……。ぐったりして、お疲れみたいだけど――それにしても、まさか伝説が本当だなんて驚いたわ』
手の内には、本の世界で手に入れた指輪があった。夢……というわけではないらしい。
――なぜか……宝石が光を失っているのが気がかりではあるが。
『アタシ、無理には聞かないわ。いつか、聞かせて頂戴ね』
魔女は柔らかい笑みを浮かべた。こちらとしても助かる。
例え今この時、言葉を交わすことが可能だとしても、"ラナ"は決して口を開くことはない。頑なに拒否をするはずだ。
かといって本来の己であっても、きっとそれは変わらない。他人に信じられようと、信じられまいと、詮なきこと。全てを打ち明けるには憚られるような内容だ。結局、口を閉ざすことしかできない。答えようのない"答え"を求められても仕様がないからだ。
口はもとより、筆談で伝えることすら災いの元となる。となれば秘するが吉。そっと胸の内に秘めておくべきだろう。
災い転じて福となすのは稀である。
『持ち主を見つけてしまったのね、その魔導具。大切にしなさいな』
その後はいつものテンションを取り戻し、師匠は爽やかに声を弾ませるのだった。
魔女の森で、魔女に所有された"美しいもの"は……森を出ることができないという掟がある。魔女の館に出入りし、五年くらい"ラナ"として生きてみて思ったのは…………
『本来の姿を棄てた自分を"ラナ"だと信じて疑わなくなっている。今、魔力は師匠に完封されて使えないまま。だけど元の姿を取り戻したいな……』
師匠にとって、自分の存在はラナイェッタでしかない。
だが、本来の自分は……絵画とは似て非なる別人である。
手鏡に写った懐かしい顔と目が合う。五年振りの対面。しばらく見なかった顔だ。
「ただいま。"僕"」
ラナよりは短いが、癖のない柔らかなミルクベージュの髪は五年前と何ら変化はなかった。爽やかでナチュラルなマッシュショートは、さらさらですっきりとしている。同じ髪型だった知る限りの者よりは、少し長めの髪が揺れる。
白磁の肌に精巧な美貌は、ラナに負けず劣らず壮絶に整っている。ラナは一重の吊り目で愛想が無かったが、現在鏡に現れている人物は、二重でぱっちりとした目が優しげである。
自分をじっくり鏡で見てみる。五年前より成長した様子だ。輪郭も丸みが取れて男性らしくなっている。声も低くなっていることからみて、時間の経過は反映されているらしい。顔は幾らか幼さが抜け、かつてより青年らしい顔立ちは、瑞々しい色気を醸し出していた。見惚れる人間は数知れないだろう。
ラナとは正反対の印象。ラナは冴えて冷たい闇夜の三日月。今の自分は星空に浮かぶ儚げな満月。どちらも絵に描いたような孤高の美少年と言えよう。
長い睫毛の下にはマゼンタに輝く瞳があった。
ただし、完全に元を取り戻した訳ではない。見えない左目の虹水晶だけ変わらなかったのだ。
良い意味で変わったことはというと――
「……! 闇の魔力、制御ができるようになっている」
魔力を持つ者は、本能による直感で魔力の流れを感じ取れる。かつて暴走した際は急流を堰き止められず崩壊した壁だが、今は強固な壁に罅は無く、扱いに一切の難が消え去った状態。
「まあ、声と姿を戻せたのは僥倖だ。封印も解けて、魔力について師匠に学んだ甲斐がある。ようやく成果が出たよ。ありがとうね、スノーシャインの令嬢殿」
鏡をチェストに戻し、眠ったままの彼女に礼を言う。
不思議な出来事を、案外すんなり受け入れた己に驚きつつもベッド横のチェアに腰掛けた。
例え一時的だとしても、夢のようである。闇は光で中和され魔力の均衡が整った。代償として失った声すらも癒せるとは。いかばかりの幸運だろうか。
「光の魔力、ね。感謝してる。君は僕の希望の光のようだよ」
不吉や面倒事の予兆と言える闇の紋章。絶対に謎を暴き、少女を救い出したいと本気で思っている。
「ねぇ、君の名前は何ていうのかな……? その唇で直接紡いでほしいけど、どうやら無理そうだし――なら、することは一つ。過去視だ」
妖艶に笑むと少女に手を翳す。
「嘘、でしょう……。冤罪でありながら独りぼっちで流謫されたというのか。赦せない、無実の天使を傷つけたんだ。必ず殺ってやる」
不穏な言葉を口にするのは、先程と打って変わり目を凶器のように研ぎ澄ました美少年である。
「――君はエルローゼリアっていうのか。あのルシフォンスって男と、アリッサーナって女にいじめを受けていた。その挙げ句の果てに、目を覚まさない惨状を引き起こされたってことか。あの男は君をエルって、呼んでたけど……君はその呼ばれ方に抵抗を感じているみたいだね。ならば、僕は君を"エルゼ"って呼ぶよ」
銀雪の聖女、エルローゼリア・スノーシャイン。血の気なく雪のような白さで、横たわったままの彼女。
「今の僕は、ラナイェッタじゃない。本当の名前は、ヴィルシアント・シェイドクローズ。よろしく」
エルローゼリアに蕩ける微笑みを向けるのは、シェイドクローズ家の最後の後継。"ヴィルシアント"だった。
「フフ……。さっき感じた冷たい唇、柔らかだったな……キスなんて初めてだったけど、無意識に重ねてしまった。どうしてかな。――ああ、そっか。目覚ましは愛の口づけが定番だからか。目覚めないという口実なら、何度でも合わせられるかな?」
そう昏く笑うと……
「――ようやく、ようやくだ。運命の光を見つけたんだ。君だけはもう、逃がしてあげない」
閉ざされた目は、静かに開かれる。光のない虹水晶の左目はそのまま。狂気が滲んだマゼンタの右目が、一層闇を濃くした紫水晶に変わっている。
「君しか愛せない。僕の全てが告げている想い……やはりこれが恋なのかな……」
ヴィーはエルゼの頬を指先でするりと撫でる。
「……透き通る銀雪を、想いのまま溶かして、僕の愛に染めてみたい」
熱に浮かされたように、甘さの含まれた吐息を一つ。
「愛しくて仕方がないこの気持ち。恋でなければ、何なのか。当て嵌めるとしたら、依存とかかな?」
呟きは誰にも聞かれること無く響いている。
「いいよね、今だけは――」
ヴィーの目はエルゼから逸らされることはなく。
少し身を起こさせ、眠り姫と優しく唇を合わせた。
「僕の最愛は君だよ。たった今、運命はそう決めた」
一瞬の触れ合い。初のキスは魔力の波に呑まれるようだったが、二回目はとても穏やかに終わった。
「次を渇望してしまう……まだ、まだ引き返せる。三回目以降は、止められる気がしない…………困ったなぁ。君を目の前にしておあずけできる程、僕は辛抱強くない」
恋に目覚めて、愛に溺れる。美少年の恋情は、唐突に始まり、芽生えた想いを止める術を知らない。
己の欲の強さに、愛の重さに、諦めたようにヴィーは三度目のキスを交わすのだった。
もちろん、三回だけで終わらせる訳がなく。
「――足りない、もっと君で満たされていたい」
角度を変えて何度も彼女の唇を喰む。形を、温度を、確かめるように。
……己の胸の辺りが苦痛に苛まれるのは、何故? 激しく脈動する心臓が、気道を圧迫するからなのか?
耳の隣で大きく甘い心音が響く。早まり続ける熱が、血を伴って躰中を駆け巡っていく。
「――――欲しい、欲しい、次はもっと深く感じたい」
キスは深まるばかり。底無し沼に沈むように、その甘美さに酔わされている。心臓が今にも破裂しそうだ。
息が止まりそうな口づけを繰り返す。塞いだ温度で火傷するようである。これでは、止め時が見つからない。吐息は熱く、荒っぽくなる唇のまぐわり。
「君とのキスの味、堪らない」
焦がれるような熱視線を最愛に向け、心がすっかり溶かされて壊れた理性をなんとか保ち……彼女をまた寝かせ直す。
「はぁぁっ……。これ以上は限界だ。眠る彼女を襲ってる、なんて……煩わしい曇り鳥に知られでもしたら――――」
わざとらしく溜息を漏らせば。タイミングを見計らうように、その鳥は姿を現した。
「呼んだ〜?? 呼ばれて来たよっーと! お楽しみ中失礼しまーす。ラナイェッタ様もとい、どなたですかー。五年経って名前忘れちゃったよ〜い」
「?! いつの間に!!」
「ラナが元の姿に戻った場面から、覗き見してました〜気づかなかったのー??」
ヴィーが驚いたのは最初だけ。その後は抑揚が平坦な声になる。
「邪魔をしなかったのは褒めるよ、クラウディ」
「そりゃあ、どーもだよ!」
ふふんと得意気な声に、視線を流す。扉の隙間からなんとも絶妙な角度で、静物のように佇む鳥が一羽。
完全に閉めていなかったばかりに、侵入はせずともずっとそこで見ていたのだ。
小鳥の間抜けする声に、途端に頭が冷静になるヴィー。
瞬時に立ち上がり、勢いよく扉を外側に蹴り開けて一言。
「盗み聞きとはね……羽を毟られる覚悟はできてる?」
拳を鳴らして笑顔で言い放つヴィーにクラウディはといえば。
「ひぇえ〜おっかないよー!! おれ、全然美味しくないし……色も特筆事項ないし……得はないって!」
「黙りなよ。叫びに頭が痛くなる」
「ス、スミマセーン」
震えた次は意気消沈して石化し、見た目通りの灰になった小鳥。白目で魂が抜けかけている。効果音で形容するならば、重低音のドォォーンという感じ。
「――なんてね! 今更本気でビビる小心者ではないのだ〜。朝食じゃないけど、超ショックって言いたかっただけさ」
「……」
急に晴れやかな態度に変える小鳥。油断すると、調子に乗って要らぬことまで話すのがお決まりなクラウディなのだ。死んだふりが特技だとか言っていた日もあったなと、回想するヴィー。
「約五年振りの再会だね、その姿」
「――そう。ヴィルシアント・シェイドクローズ。昔みたいに呼ぶと良い」
「ヴィル君、久々だよねー。声も復活しちゃってるみたいねぇ。懐かしや〜。目は、完全ではないけど……どう見てもヴィル君だって。その性格も、おれに捻くれてるところも変わってないな〜! 吉報、銀雪のお姫様への一方的で情熱的なキスで、姿戻っちゃった件について――ってな感じだろ〜?」
「無駄口は結構。収穫は?」
「ごめーんなさい。特に無かったや、トホホ……」
「理由を言え」
「単純明快さ。怪しい気配はすれどいまいち掴めなかったんだ〜。その娘の"力"のせいなのかなぁ、関係あるかはまだわからないけどねー」
項垂れる鳥はグレーな気分になっている。
「ふーん……それで、終わり?」
「今のところはね!」
「わかった」
「ラナイェッタの相棒兼用心棒改め、ヴィルシアント様の片翼としてこれからも努めさせていただっきま~す! 姿が全てじゃないのさ!」
渋々納得したヴィーは肩の力を抜いた。
「ハイテンションな小鳥の相手って、いちいち面倒で疲れるよ」
「ヴィル君ったら失礼だなー!! むきぃいっ〜」
じろりと全く怖くない睨みで、根に持つクラウディ。
どうにも毒気を抜かれる曇り鳥だ……。
軽く両手を組んで手のひらを上に向けた伸びをした。思いきり伸ばしてみて脱力した後に、深呼吸をすると落ち着く。
「ふぅ……」
深呼吸の間の内に、閑話休題とすっかり態度を戻す小鳥。硝子玉の目はいつも通り、楽しげに輝いている。
「ねー、ねー、ヴィル君や」
「今度は何」
呆れた顔で腕を組むヴィー。
「眠り姫様のことが大切なら、ぜぇったいに護り通してみせろよ」
かっこつけて言うクラウディ、ヴィーが返す言葉は淡々として変わらない。
「当然。護りきることは、最優先事項。誰にも渡さないに決まっているでしょう?」
「大好きなんだねー。愛ってそーゆーものか? てゆーか、ヴィルたんはどんな愛で護るのが理想なんだい?」
「僕の場合はね、まず周りにいる穢れの要因を徹底的に始末……消すことかな。害虫を隅々まで駆除して、塵を完璧に掃除してでも護るのが当たり前の愛だと思うんだけど、どう?」
「……わーお。物騒だなあ。想像以上に拗らせちゃってるね、狂愛者ヴィルシアント」
「なんとでも言え。――僕は愛しい人にその他の雑多な存在を見せたくないだけだ」
「ひゅうぅ〜♪ ヴィル様の本気と全力は、灼熱地獄なのか、はたまた絶対零度なのか――はかり知れないよね。こっわいなぁ〜」
「もういい。取り敢えず黙っておけ。人払いというより、鳥払いだ。直ちに去れ」
「へーい。黙っときますって。お邪魔鳥は再度去りまする〜」
ぺこっと頭を下げて、いつにも増してにこにこするクラウディ。
「ところで、鎖のネックレスに通された指輪……今なら使いこなせるんじゃない?」
「――指輪、か」
「では、じゃあのっ! さらばでござるなりー!」
意気揚々で意味不明な小鳥にぽかんとしながら、扉の外へいったのを確認した後、今度こそ慎重に扉を閉ざす。
「ふぅ。やれやれ……鳥の悪友を持つと苦労は絶えないな。人騒がせな奴」
クラウディの性格は、曇り空のように陰鬱とはしていない。むしろ程遠く、元気溌剌で活力に満ちている。見た目通りの奴だったら、ただのつまらない小鳥だが、それがクラウディの良さであり面白いところだ。
だが内心では、このようにも思っている。――小鳥の分際で、ギャップもえを狙っているのか……? あざとい奴め。
「まさか、不審鳥に筒抜けだったとはね……頗る機嫌がいいのには毎度腹が立つよ」
恨めしげに零した言葉は、苦笑混じりに消える。
「けれど、慧眼には恐れ入る。目敏いし一応は有能だからな」
懐から取り出した指輪は、輝きを取り戻していた。流石、片翼を自称するだけあって、賢い曇り鳥だ。
ヴィーは足音を潜ませ、チェアに戻りエルゼの手を取る。
「エルゼ。凍えた君を絶対に助けてみせる。闇に眠った君が目覚めるように。呪縛が解けるその時を待っていて。……待たせたままにはしないから」
彼の強い意思が込められている。手を握る優しげな両手、気遣わしげに揺れる双眸、真っ直ぐな声。どれもヴィーのエルゼへの想い故である。
「君の為なら何だって叶えられる気がする」
瞳は闇に昏く染まっている。ひとえに尽くしたい愛情が、己の内で黒く渦巻く。
ヴィルシアントは、エルローゼリアに病的なまでの執着を抱く。道から外れても、迷いなく走っていく愛情。
彼の狂愛を、止めることはできない……
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