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暗黒の狂愛 Dark mad love
君との出逢いで、恋の地獄の蓋と心の螺子が呆気なく弾け飛んだ。溢れ出たのはドロドロに煮やされた愛と欲望。これらは今まで僕が知らなかった感情だ。
天からの呼び声? 地の叫び声? そんな崇高な声でさえも、僕を動かすことは出来なかった。――けれど、君が奏でる声は違った。地の底から天まで引き上げる、慈愛の音色。僕の中で止まった時を動かすには十分だった。
切なく胸を締め付ける感覚――これは、恋情だ。恋に堕ちた音は、釜の内側で揺れ動く灼熱の沼に吸い込まれていく。昂る業火の中、炙られ燃やされるように。焼かれるように内側を焦がす紅蓮卿。
心の水面は濁りきった暗黒。自我を呑み込む闇。
深淵から這い上がるこの激情は"執着"だろうか。この感情はどこまでも重くて昏い。依存の域にまで達しているのではないか。
君が他人に笑みを向けるだけで、心は骨の髄まで妬けて、溶けて、狂おしい程の感情は黒い火の海と化す。
君に触れていいのは僕だけだ。誰にも横槍は入れさせない。
何人たりとも、儚くもしずけき銀雪の清らなる光は奪わせない。
――愛おしいと初めて思えた君だから。
背に腕を回せば、彼女もまた返してくれる。両頬を掴んで迫ればゆっくり目を閉じて受け入れてくれる。僕だけに甘えてくれる君と、その幸せに溺れてしまったから。
柔く冷たい感触は、雪解けのように温く濡れる。すっかり味を占めて、やめることができない。至近距離で輝く瞳は涙を溜めて、頬は火照って色づいている。――かわい過ぎて、頭が麻痺しておかしくなるよ。
愛する人を前にすれば、我慢なんて、できないんだ。
ごくりと鳴らされる喉。滲む汗。彼女への欲情が留まることを知らない。
恋の予防線は、もう超えた。底の底まで堕ちている。
――次は君の番だ。君がここまで、早く堕ちてくる瞬間を心待ちにしている……。ずっと、待ち焦がれている。
赤黒い恋の沼に沈んで……君をいつだって取って食いたがる獣で、過保護で些細なことでも咎めてしまうし、自由も素直に喜べない不器用な男だけれど。
――――僕は、君を愛している。君こそ、僕の至福なんだ。
◇ ◇ ◇
わたくしは、"何か"を恐れて一心不乱に逃げていた。追いつかれやしないかと、休まる間もないまま――
ひんやりとした夜風が撫ぜてくる。寒くて凍える深夜、疲弊した身は白い息を吐く……。
満天の星空で丸い月が煌々と輝いていた。鮮明に浮んだ月は白く抜けていて、夜には無二の光。雲に遮られることなく、無数の星々が明滅する宇宙の海。
己は身を隠し……音を必死に抑えて存在を消そうとするが、背後に気配を感じ、石のように固まる。
吐息が耳元で擽る。輪郭を沿いなぞるしなやかな指。耳の縁をなぞられた後、獲物を品定めするように指先が首に触れた。項をつうっと滑り、じりじりと爪を食い込ませ、痛みを与えていく。
急な刺激にぐっと悲鳴をのみこむも、声は抑えられなかった。震えて動けない。脚に力が入らない。
緊張で擦り切られる。
「――ひぁっ……!!」
刃を向けられたように、喉から悲鳴がひゅっと出る。涙が一滴、短く伝った。
「艶めく敏感な躰。随分とかわいい嬌声で鳴くんだね、それだけ僕に骨抜きにされてるって捉えればいいのかな」
聞こえてきたのは、甘やかな囁やき。よく知る、この声は――
ああ、ヴィーの声だ。
「ぅぶ……」
腹部へ腕を回す彼。力が強く苦しい。せめて腰に……。
本音が出かけるが――
「君を危機的状況に陥れたのは"奴"の仕業だな。地の果てまでも赦すものか……! 反吐が出るし胸糞悪い。どんな手段を用いて嬲り殺してやろうか。草の根を分けても捜したいところだが――――でも、君にも凄く怒ってるんだよ……エルゼ」
表情を見ずとも、声のみで忿怒が感じ取れた。底へ突き落とす低音が鼓膜を揺らす。毒々しい言葉を吐き捨てる彼が怖い。
「苦しかったね……もう大丈夫。無事とはいえ、君に何かあったらって――本当に心臓が止まったよ」
でも、いつもの優しい声は戻ってきた。
互いはすぐにしゅんとなる。
甘く優しく咎める唇がつむじに触れる。頭を撫でてきて、しなだれこむ彼は不貞腐れている。
「全くもって緩いよ。あの場で襲われそうになるとか、危機管理能力ゼロなの……? 僕がいなければ、最悪の事態は免れなかった。本当に、危なっかしくて放っておけないな。これに懲りたら反省して。二度目はないから……」
心配する声とは裏腹に……血脈を押し潰す程、手首に込められる力が強い。
「ひゃ、い」
はい、すら紡げなかった。
「月も美しいこの真夜中に単独で、しかも心許ない格好で出歩くなんて……聖し淑女様とは思えないな。……人気のない暗がりを、みだりに動き回るとは感心しない」
(かろうじて、指輪の追跡機能で君の居場所を察知及び監視できるのが救い。こうでもしなくちゃ、君は簡単に勝手に離れていこうとするから。愛する人の全てを知ろうとすることのなにがいけない?)
彼のミルクティーベージュの髪は風にそよぎ影を落とす。蕩けた葡萄色の瞳は、濃い闇を垂らしたかのように妖しく揺れた。一瞬、真っ黒な執着の色も覗かせて。不穏……この一言に尽きる。甘やかな闇に身を蝕まれる予兆。
確かに、着の身着のままで飛び出してきたので、今は無地でゆったりとしたロングワンピース姿である。
「普段のドレスはどちらかといえば着痩せするほうだよね。こんなに魅力的なスタイルなのに勿体ないよ。曲線が隠れていないから、逸る気持ちが抑えられないけど――僕以外の誰にも見せたくないな……」
ミッドナイトブルーの生地は、丈も袖も長いとはいえど、首周りが開いている為に少々肌寒い。動きやすいけれど、生地は薄い。綺麗なシルエットだが躰のラインが出るのだ。色がはっきりとしているので一層輪郭が際立つ。
「――よく似合っているね。君の瞳と同じ色でよく映える点が特に好評価だよ。薄絹の肌と夜闇の対比が素敵。かわいい……無理やりにでも暴きたいな……」
脈絡もなしに、彼の情欲を刺激してしまう。
「それで喰われたと弁解されようが、非難されるいわれはないから。――こことか……あけすけで、気も漫ろになる」
開いた首周りの際どい部分を指でなぞられる。
「自由にしたばかりに、虫に集られでもしたら一大事だよね。自覚は、あ、る?」
圧力に押し潰されそう。わたくしは不安を誤魔化すように頷く。
「はい……」
「わかればよろしい。じゃあ、反省も兼ねてお仕置きするね。悦びなよ……僕の手で乱れ咲くといい、吹雪の真白な花一輪」
銀雪の横髪をそっと耳にかけられる。
夜風に冷えた躰が人肌を欲する。心で思っていたことが、そのまま言葉に出たのだ。
「――温めて、欲しい」
わたくしは無意識にとんでもない発言をしてしまった。
しまったと口を押さえた直後、ふっと耳へ熱い息を吹きかけられるので、びくりとする。蠱惑的なムードの中、覆い被された。
「……いいよ。熱過ぎて気絶しないでね」
嬉しそうに弧を描く唇。声は心なしか弾んでいる。
「躰を悦ばせるだけじゃ、お仕置きというには生温い。感じさせて、疼かせて、喘がせて、痛みを伴う程でないと駄目。君の弱いところは把握済み。消えた跡は、新しい印でとことん上書きしようか」
鼻梁も通って出で立ちも最上級なこの美男子。見目麗しい姿や万人の心を掴める声に誰もが虜になる。
多少の? 性格難を補って余りある天性の魅力を持っているが――――
ただし……眉目秀麗でありながら、品行方正とは言い難い本性も秘めているのだ。束縛や求愛が激しく、嫉妬深く執念深いし、一途なのはわかるが……あまりにも重い愛を向けられるのが贅沢な悩みである。断じて惚気けているつもりはない。単なる事実。
「君の玉肌に牙を立てていいのは、僕だけの特権。――ね?」
ワンピースの襟を掴まれ下げられた。すべすべの薄い生地は容易に肩までずり下がり、前胸部もはだけて露わになる素肌は、冷え込む空気を直に受けて身震いする。
「まずは、一つ目」
「……いっ!」
咄嗟に身構えるも、間を置くことなく、肌に音を立てる程痛く吸いつかれる。その度に幾つもの印が浮かんでいく。自分のものだとマーキングするように、存在を主張する紅い花。
音を立てて迫り上げる心臓が、口から吐き出ていきそう。こんな醜態を晒す羽目になるとは。
「好きだ……エルゼ」
吸い上げられた肌がじくじくと痛む。
印は元々露出していた首から始まり、肩口、鎖骨、胸元へと続いていく……彼の歯が沈んで、唾液も染みて、なおのこと痛むのだ。
「ねぇ、聞いてる? 大好き……愛してる……。何度だって伝える。滑らかな柔い躰に刻み込みながら、何度も、何度でも」
貪られていく肌に、花が連なるように鬱血痕が増えていく。
「……ひぅうっ……!」
「甘い肌。みっともなく僕に乱される綺麗な躰。蜜を吸われて紅く染まる。まるで花のよう……」
舌を這わされると、躰が痺れて反応する。
「心地よい温度と、よく慣らされた感度……」
彼は舌舐めずりをして、爪でキスマークだらけの肌をやや強めに引っ掻いた。
「……ひゃんっ…………!」
擦る指先が鎖骨の下辺りで非常に怪しく動いている。同じ箇所を往復させ、焦らしてくる。
「こんなときでさえ、君の躰は熱を上げて欲している」
「……っあ……」
近距離で耳が拾う彼の声が媚薬のように脳まで犯してくる。彼の言葉攻めは高威力。吐息すらも甘い快楽をもたらす。心臓が果ててしまいそうだ。
……貴方はいつだって、わたくしに真っ直ぐに愛情を向けてくれる。でも、何故焦ったような顔をしているの?
「互いに同じ時間を生きて言葉を交わせる。その幸福を痛感した。――もうその身を呪うだけの過去は忘れてよ。今の"僕"を見てよ」
未だ迷いから抜け出せないでいる己に、訴えかける双眸と両手。
「愛してるから、選ばせてあげる。愛してるなら、何も言わずに僕のところまで堕ちてきて?」
線を引かれたその先は闇。隔たれた領域を超え、彼のもとへと堕ちたなら、優しく闇が包んでくれるだろう。境界の内に行けば、きっと護ってくれる。
けれどこの期に及んで、まだ彼を引き留めて――もし、また失われたら、わたくしは…………! もう誰かを道連れにするのは嫌よ!
「――――ごめん……なさいっ…………!!」
応えた刹那、ヴィーの気持ちを、否定したばかりに――
「……そう」
先程までの穏やかさは消え……声のトーンが下がり、ゼロからマイナスまで落ちる。
影のようにぴったりと身を寄せてくる彼はまるで亡霊に見える。
「君は、一体何を見ているの。僕の幸せを勝手に決めないで。君が幸せでないなら、意味がない」
「……そんなつもりはなかったの。ただ……貴方に生きて欲しいだけで」
尻すぼみになって、説得力のない声が出る。
「君に目を逸らされる度、胸の奥が痛むんだ。最期まで責任を取ってよ…………避けられることが、心を塞がれ続けることが、棘の雨に降られたように辛い」
ああ、彼にこんな顔をさせてしまう自分は――
「未来に怯えているなら、何故僕に話してくれない? 僕はそこまで頼りないの?」
――独りよがりを、押し付けているだけじゃないか。
「拒絶するなら、僕をいらないと思うならば……せめて、愛しい君の手で看取られたい。お詫びに捧げられるものは、もう命しかないんだ……煮るなり焼くなり好きにしてよ。捨てるなら、光の魔力で影も残さず消せばいい。光で闇を浄化するといい」
……掠れて耳に届くのは、弱々しく震える声。腹の底はわからない。だが、本心なのだろう。
「傷つけて、ごめんね……散々だよね……わたくしと出逢ったばかりに……」
謝って足りない幾つもの罪悪感が襲う。わざと鎌をかけているようには思えない。
しかしこの場面で、彼は唐突に昏くした声で言った。
「――なんて気はさらさらない。謝られても煙たくなるだけだし、窮屈な思いはさせないでくれる? 命は一つしかないんだ。使うとするならば……もっと意味のあることに使いたい。君に出逢いを否定されるなんて思わなかった。少年のいたいけな心を弄んだ罪は重いよ、エルゼ」
ストロボを焚くように、彼は豹変した。
「ゆ、ゆ、るして……くだしゃ……いっ」
威圧感に、噛んでしまった。
「嫌」
別人のように、負の感情に取り憑かれている。怒らせた……!?
「どう……して……」
「――その声で、その表情で、どこまで煽るつもり……? 欲を掻き立てて興奮させるだけなのに。……逆上させると怖いよ? 煽りも程々にしないと、命知らずに誘惑したばかりに襲われちゃうね」
狂気に犯され、完全に闇堕ちした彼には到底今のわたくしは敵わない。
「ひっ……! ごめ……なさ……」
「こら。お喋り禁止。縋り付こうなんて、甘ったれるなよ……加減ができなくなる」
人差し指を唇の前に当てられる。
「甘くかわいい声で言っても駄目。許してあげないよ? もう我慢しないから。思い知らせてあげようか……」
……クスッ。彼の笑みが、暗黒の微笑に変わる。
逃避行の手段はどうでもいい。早く彼を説得しなければ、退路はないのだから。けれど、今は説得できる様子では…………
「唇を噛まないで。傷つけるのは許可しないから」
睨みつけられて、竦んで屈伏してしまう。
「無償の愛? なんて虫がいい話……違うね、有償だ。返してくれないと困る」
心外だよねとおかしそうに嘲る。その様子は普段の彼を知っている分、俄には信じられなかった。
わたくしは恐怖で身を震わすだけ。彼から離れようとばたばた暴れてみるが……
「打ち上げられた魚のように暴れて、いけないなぁ。喰らってくれとばかりに跳ねて活きが良い。ぞくぞくする……僕にこれから無理やり捌かれるとも知らないで、まな板の上でびくついて踊るんだもの。泡を吹いて干からびるまで調理してあげようか……? 捕食される気分はどう? 喚いても助けは来ないよ」
言葉責めが、いちいち過激。ただでさえ、耳が孕むから勘弁してもらいたい。どうか救援求む。このまま心臓が止まりそうなのだが。
生々しいキスの痕をなぞられる。指がぎりぎり触れるかくらいの、微かな感触にさえ反応してしまう。痣には痛みと快感が、ぞわぞわと小刻みに襲ってくる。
「フフ……印がたーくさん。僕の名前を刻みつけるよりも似合う。僕のものだ……」
目を細めてうっとりするヴィー。恍惚とした声が鼓膜を振動させた。
「――なん、でっ……?!」
それだけしか言葉がでなかった。――なんで、ここまでするのか。
襟元へとしがみついて叫ぶわたくしの声など聞こえないようだ。
「砂糖のように甘い恋なんて、綺麗事だよ。依存し、やめられない劇毒。こんなふうに」
ずいっと顔が近づくと顎を強引に掴まれ、焦点の合わない闇に澱みきった瞳がギラリと射抜く。
数え切れない手籠めのキスをしてくる、手練れの恋人だ……。
――これは呼吸困難の前触れだ。
唇をするりと舌でこじ開けられ、歯列をなぞられて口腔を支配される。唾液が混じり、口元から雫が伝う。
わたくしは腹いせに、がぶりと仕返しをする。
「だからって……こんなの、違うわ……!」
不意打ちにも動揺なく、笑顔を一切崩さない彼。静かにじわじわと追い詰めてくる闇は、臆して後退ろうとした者を絡め取り、動きを止めて……確実に仕留めてくる。
形容をするならば――超濃厚かつ不動な暗黒。変わらずはっきり浮かび上がる闇だ。まさに暗闇の檻。
高圧力で大迫力の圧倒的威圧感。敵なしの凄い威力を有しており、全てにおいて存在を押し潰されそうな重力場だ。闇で囚え墮落させる超重力からは誰であっても、逃げられないだろう。それこそ、遥かな地獄の底へと至るまでには。
彼は清々しいくらい遠慮がなかった。怖いもの知らずなのか、迷いも隙も情けすら微塵もないからである。抗う気など残されず屈伏されるだけだった。
避けようとしたのが運の尽き、果てまで執念がついてくる。堪えないし絶えない。
何もかもを吸い寄せるというより、底まで見透かし全てを吸い取るかのような昏い色を宿す双眸。獣にも似た鋭い眼光。
その一瞬に油断したツケが回った。抵抗も虚しく立ち場は逆転。
「僕に噛みつくなんて。戯れたばかりに怒らせたんだ――素直じゃない躰には、調教が必要だね」
恥ずかしげもなく、よくもまあ、ここまでつらつらと、刺激的単語を連ねられるものだ。
「……!」
ふいとそっぽを向く。すると……
「次、無視とか嫌がらせしてくるようなら……問答無用で犯すから。耳も唇も躰も隅々まで」
しつこいキスは、終わらない。むしろ激しさを増す。
「――んんっ、んぅ……!」
荒い粘膜の交わり。口内を舌で執拗に愛撫され、少しの刺激すら快感へと変わる。弱いところを徹底的に攻められる。……心臓に悪い、息が止まる。
貪欲に求められ、際限なく息を乱される口づけ。いつにも増して乱暴なのに、癖になる。彼が漂わす色気に当てられる。……とっても刺激が強いので、目と耳を塞ぎたくなってしまう。
「……はあっ、はぁ」
「まだだよ。もっと君の感触を堪能させて」
恍惚としながら頬を上気させる彼は、欲情にどろどろとした目を細めて、口角を上げる。する……と頬に彼の親指が滑る。
幾度も繰り返される熱に溺れて深みに嵌まる。
身を任せて、抵抗はやめた。
キスの最中、両耳を彼の手に塞がれたら、恥ずかしさが倍増してしまった。粘着質な彼の愛情に絡め取られて思うつぼ。甘い罠にとらわれたら、簡単に抜け出せるはずもなく。
「……んんんぅっ!」
リップ音の後に内緒話をするように耳元で囁かれた言葉は――
「ふ……キスに腰が砕かれてこの有り様か……。でもね、安心して……崩れ落ちても僕が支えてあげる」
「あ……待って……!」
「焦らされるのは嫌。お預けも嫌。寸止めなんて生殺しは許さない。待たないし、逃げたら追って捕まえるだけのこと。……涙で潤う瞳まで飴みたいに甘そうだね。聴かせてよ、媚薬のようなくぐもった嬌声を」
じゅるっ……音を立てて、絡ませ合う唇の熱。
「ふっ……んんぅ……!!」
「ははっ……甘いよ、君の唇はとても甘ったるい。愛する人の唇は蜜の味。鈍い心は自衛も甘くて危ういし、困るなぁ」
「んっ……」
ちゅっと舌を吸われ、さらに甘く噛みつかれる。激しい粘膜の交わりは官能的な水音をぴちゃぴちゃと奏でる。段々音は大きく、荒くて強い快感の波は次第に強くなっていった。引いては寄せるを繰り返す唾液の潮。
ますます深くなる。ほぼ無呼吸な状態といっていい……。
対して彼はどうか? ただ、蕩けた瞳と涼やかな笑みをうっとりと浮かべるのみ。透きとおり澄み渡るような晴れやかさとは程遠い。不透明な闇色に濁りきった瞳と狂気に満ちた笑みには、加虐的で歪んだ悦びが表れている。その様子は、ぞくっと背に冷たい痺れを走らせた。刃を突きつけられたような戦慄と焦燥を与える。
一切の息の乱れを感じさせないどころか、むしろ……もっと、と身を焦がし震わす情欲の炎が燃えている。赤よりも強烈な青色の炎が、闇を纏うことで黒く染まっていた。
熱く濡れて熟れた唇と、互いに混ざり合った甘い唾液。陶酔感に黒い火花が閃き弾けるようだった。
執着に塗れていた心の奥底にはさらなる執着――依存が眠っていた。時満ちて鍵が開き、蓋の封が解かれ、目覚めたが最後……次第に依存は浸透し、やがて全身を侵食していくのだ。
溺れる大波に攫われて、奪い去られる。激しさの余り、壊れそうな程。強い狂気は愛以上に危険を孕み、重い。打算的なこだわりはもとより、理性もそこには存在しない。
――なぜなら、とっくに壊れているからだ。
「愛してる。愛してる。愛してる。だから頂戴? 愛しいエルゼ。風の凍る夜を、互いの熱で塗り替えたい。口福と快楽を共有したい」
「はぁ……ぅ、んんっ」
「甘過ぎて癖になるよ、中毒性も依存度も凄まじい。限界まで甘くした糖蜜のようにね」
「んぅっ……はぁ、もっと……」
「煽らないで。――止めないから」
舌舐めずりと共に、彼は笑みを一層深くし、より瞳の闇をどろりと澱ませた。
捕食されて喰らわれて、理性も思考も残らず熱に酔わされる。長く甘い時間は続く――
そうしてどれだけの時間、彼との口づけに溶かされていたのやら……。ふらついて倒れそうになるが、彼にがっしりと抱きとめられる。
「おとなしくなるのは利口な判断だ。――でもキスだけじゃ、不満でしょう? 無理やりに襲われたくないのなら、正直に応えて」
終始真剣な彼の言葉の刃は容赦なく突き刺してくる。もう襲われている、とか言ったところで加速する一方だろう。わざわざ拍車をかけるような真似はしない。
「キスは満足したから……もう、やめて……」
必死に言葉を選び、懇願する。
「そっか……。なら、僕を満足させてくれたらやめてあげるよ」
笑顔と裏腹に、目に光は灯っていない。あるのは狂気染みたマゼンタだった。冷気で凍死しそうな声が貫いてくる。
「!?」
「しない、とは言っていない。これを期に知っておくといい。――口は内臓なんだ。臓器との触れ合いを許した時点で、飢えを満たそうと本能は求める。わかりきったことだろう」
瞳の奥には混在する愛憎が見え隠れする。揺らめくマゼンタは次第に鋭さを増していく。
「う、そ……」
「優しく丁寧に気持ちいいことをされたいなら、返答は?」
「……」
「あくまでだんまりを決め込むのか……。愛する君には僕は短気になるんだよ。手酷くされたくはないでしょう。素直に一言伝えるだけだから、ほら?」
催促してくる声は妖艶さたっぷりに鼓膜で響く。
「――キス以上の、愛を……ください」
「御名答。大正解」
よくできました、と彼は静かに瞬く。
「真に受けないで。からかっただけ。心配無用だし、大丈夫だよ。返答次第で悪戯しようかなとは思ったけれど」
「……!?」
「今更な警告だけど、本気でキスから逃げたいのならさ……舌を噛み千切ればいいんだよ? 一切の容赦なく、それこそ一息に仕留める。たったそれだけのことにも関わらず、優柔不断だよね。正当防衛ならば、何ら気に病むこともないのにさ。キスの最中なら、一番手っ取り早くできる、有効な手段なのに。その程度悩むまでもないはずだ」
意外な言葉に動揺する。しかも、よれた襟まで正してきた。当たり前だろうと疑問に問いかける彼は未知数だ。
「キス以上の行為を期待させておいて悪いけど……ここまでにしておいてあげる」
――流石に欲張り過ぎたと呟き、首に軽く腕を回された。
「――君に酷いことをした自覚はあるよ。僕は謝っても済まないことをしたと思うんだ。僕には君しかいないのにね、ごめん。愛の限度も過ぎれば暴力だし……単なる欲の押し付けは迷惑極まりなかっただろう……」
陰る顔はどこか哀しくて、なぜか諦めを滲ませながらも……笑む。いつになく穏やかな表情に見える。微かだが、愛しさと切なさを含んだ綺麗な笑顔だ。ほんの僅かで気付きにくい変化だが、優しい光が瞳の中にあるのがわかる。ささやかな祈りを静かに紡ぐように、清くどこまでも美しい。
なんて人、なんだろう……。良心とせめぎ合い、良心を殺すような、たちの悪い悪戯な加虐心だったはずなのに――隠されて知らなかった彼の本当の心……内面と本音を見せられた。露わになった一面に、なぜだか無性に惹かれてしまった自分がいた。こんな姿を、彼が見せるとは珍しい。
「続きが欲しいでしょう? 焦らされて、おあずけされる気持ち、わかるよね? 待つ時間は苦痛だよ……。飢えて仕方ないんだから。そのうち、飢えた身は何もかも全てを壊したくなるんだ」
彼は今も苦しいのだろうか。マゼンタが紫を濃くして揺れている。さながらアメジストのように。
傷を見せないために、心の隅に追いやり、なにもないように取り繕っていたのか。心の痛みに見て見ぬふりをしながら、偽った心を盾に。無理は承知でも己の内側に抑え込み、必死で堪えていたんだ。
報われて平穏を掴める者は一握り。彼にとって救いを求めた先が、依存だったということか?
かつてどこかで見た色彩。脳裏でぼやける記憶の欠片……。その片鱗を伺わせる。――必死に記憶を探るが、どうしても、思い出せなかった。
「じきに気づくよ、愛されないと物足りなくて生きられないって」
当たらずとも遠からずだ。上限なく愛そうとも、足りる程には伝わらない。どんなに想っても、全部は満たせない。
「君は、僕が"奴"に殺されることを恐れている……そうでしょう?」
より陰った表情と物憂げな声は深い切なさを帯びていた。わたくしの胸中は既に見透かされており、図星だった。
「復讐っていうのは、決して満たされない。誰も彼もに寂しさと虚しさだけを伝染させる。君を復讐の闇で穢したくはない。きっと、"奴"のせいで僕が殺されたとき……君は、君でなくなるだろう。相手の正体を知って復讐したにせよ、残るのは報われない想いだけ。――死線の向こうに逝ってしまえば、二度と空白は埋められない」
彼は一歩分距離を取って、わたくしの肩に置いていた手を力なくだらりと下げる。
その後、彼は甘い瞳で見つめ、安らぐ優しい声で諭すように言った。心臓を刃で裂かれたように、溢れ出る想い。
「僕はいつでも君一筋に身命を賭す。何千何万何億を投じられようとも、この想いは変わらない。血の一滴まで、君の為に捧げると誓った。滅びゆく時まで、君の傍に…………」
俯かず、目を逸らすことなく、わたくしに胸襟を開いた。彼の心は、受け入れるにはあまりにも重圧だった。
「――ずっと、君を愛しているからね」
ぽつりと呟かれた言葉は、まるで罪の懺悔を思わせる。闇が払拭され、光に浄化されたような笑顔。安らぐ低音が編み出した愛の言葉は、死すら恐れない覚悟を感じられた。終わりを悟った命を彷彿とさせる。魂の最期を飾るような響き……え?
嫌な予感がした。鼓動が重苦しく波打つ………まさか。
いつの間にか、己の首に闇で作ったナイフを突き立てようとする彼。
「死んでもなお、壊れていようとも、想いは永遠に続くんだ」
――ドクンッ
悪い予感に全身が逆立つ。危険を全身で察知する。
嘘であると言ってくれ。わたくしは焦燥に、瞬きすらせず硬直してしまった。冗談ではないと、脅かしている訳ではないと、彼の纏う空気で嫌でもわかった。これが早とちりの勘違いでないなら、警鐘を鳴らし己に知らせるこの予兆は――
首へ微かに切っ先が食い込み、紅の一筋が流れる。目の当たりにした血の色に、酷く混乱する脳内。
「――――これは夢、よね。覚めて、覚めて、覚めてよ……!!」
祈って変わる現実なら、どんなに穏便であろうか。
「夢なら、止めなければいい」
泥のように眠って忘れたい。夢に逃げたいと願う心は、いとも簡単に打ち砕かれた。
「ヴィー、早まらないでっ!!!」
失言は破滅にも直結するという。――だが、まさにそれが現実になろうとしている。
「喪われてから初めて気づける愛もあるんだって……命を絶つことで守れる恋もあるというよ……。これなら、夢だろうと君の中で僕は生き続けられるよね? 名残惜しさは多々あれど、唯一の光であるエルゼが世界で一番大切なんだ。最愛の君が、例え僕の為だとしても、恨みや憎しみにとらわれて穢れることは望まない。君が生きる理由が、僕以外であってほしくない……」
残酷な言葉に、涙で世界が霞む。
「……!!!」
最も恐れていた"死の悪夢"が、忍び寄る。
「さようなら、僕だけの愛しい貴女――」
そうして彼は温かく微笑んだ。
目を閉じた彼。その手に握られたナイフが止まることはなく…………
満月の逆光に、鮮血が紅く散った。血飛沫が顔に跳ねる。深く闇の牙が侵食する彼の首。傷は浅くない……。致死量の出血に、時が止まるようだった。わたくしの血がさあっと引くが、息もできない光景に絶句する。
未だかつて感じたことのない衝撃により、心が機能を停止し、脳は思考を放棄する…………正常でいられる訳がない。
不安定だった世界は一瞬にして大きく傾いで破られた。心が叫ぶ前に木っ端微塵になる。
止めようと伸ばした腕は、もう遅く。
「あ、え、……わ、わたくしの、ヴィーが。あ、ああ……ああっ……!!」
温もりを失い冷たくなっていく彼を、抱き締めて咽び泣き喚くことしかできなかった。
大切な人を喪い、もう生きていけないと思った。生きる意味を失っても、後を追うことは叶わず――冥界の闇に身を投げる勇気もないまま、終わらぬ絶望の谷へと墜落した。
生きたまま、死んだ心地だった。断末魔もなく訪れた別れに、脆い精神がばらばらと崩壊する。空洞化した心が、とめどない涙で液状化してぐちゃぐちゃになっていく。
解けない腕の拘束、擽る髪や吐息、触れ合った熱の余韻が、今も。時の進行に薄まることもなく、どんどん湧き上がる。
指輪の宝石が割れて、色を失くす。彼の生命を、感じられない……。
――――奈落の底で壊れたわたくしを埋めるのは、貴方の面影だけだった。
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