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銀雪の聖女は最愛に揺らぐ Sweet kiss&Bitter memories
――ある夜のこと。
「僕は君のもの。君は僕のもの。僕はね、君の全てを欲して仕方ないんだ…………フフ」
妖しく笑みを浮かべる美青年が一人。
静かな夜、彼の言葉に返答は来ない。
――月光が照らす彼の目に光はなかった。マゼンタの煌めきは、昏く塗り潰されている。
「…………本当に、君は美しい。今夜もずっとそのままでいてね」
彼は寝台に腰掛け、すやすやと眠る娘の銀雪の髪を梳きそっと唇へと口づけた。
「壊れた僕を、全て君で埋めて」
そして彼女の髪を掬い、愛おしげに息を吐いた。
――彼の顔には生気がなかった……
◇ ◇ ◇
"エルローゼリア・スノーシャイン。輝く銀雪の髪と白皙の美貌、星の煌めきを宿した濃紺の瞳は夜空のよう。齢七つで女神エルゼに選ばれし、光の加護を授かった聖女"
……と世間で注目を浴びるが、至って普通の凡人である。――容姿が取り柄で、一部の能力だけが桁違いに優秀なだけ。天才と言える程のことはしていないし、何なら聖女でなければ何処にでもいるお嬢様止まり。
今わたくしはそれなりの装いを身に纏っている。銀のレースと刺繍が美しい紺色のAラインドレスは上品で、極端な華美は控えている。周囲と比較すれば地味に見えるが、これでも努力したほう。派手に飾り立てるのは苦手なのだ。
皆がわたくしを女神の生まれ変わりと呼んでいるが想像の域は出ない……。十七歳、恋愛経験皆無で純情。露出のほぼ無いドレスしか着ず、流行に疎く友人といえる人はいない。――とはいっても、内向的で人見知りという訳では無い。単純に……他人と違って、少しコミュニケーションが不得手なだけである。
そんなわたくしを照らすのは眩しい幾つものシャンデリア。今王宮の広いパーティ会場にいる。ここで数少ない貴族に囲まれる中に立っているが、遠巻きに見られるのはいつものこと。日頃の積み重ねで慣れている。
不定期に開かれる、絢爛豪華なイベント。四天公爵家と名だたる貴族達が招待された、一握りの者のみのパーティ。誰もが夢抱くこの華やかなパーティを取り仕切るのは言わずもがな王家である。イベントの目的は高位貴族達の交流会。一般的なお茶会の規模が大きく豪奢になっているイメージ。――表向きはそうだが、その影で探り合いや智略を巡らせ、互いに力を誇示する場でもある。貴族社会の表裏を窺える貴重な機会と言えよう。
四天公爵家であるアクアリュクス、ウインガルム、フレアエマルージュ、スノーシャイン。かつてはシェイドクローズ含む五家だったようだが――。女神の支柱とされる、五大神を象徴する先天属性……水・風・炎・光・闇に属せし五つの勢力。わたくしは国に連なる上位五貴族の内の一人、光の派閥であるスノーシャイン家の後継。故に強烈な光の魔力を血に宿していた。
有する光の魔力は希少なのだが……わたくしにはその上、女神から受けた光の加護もある。だから"滅多な不幸"がない限り死にはしないでしょう。最も……この加護による能力の詳細については秘匿すべき事項である為、周囲の者達には加護の存在有無しか知らせていない。神殿の皆様には、くれぐれも一人で内密にして欲しいと言われた。念を押して言われるまでもない。改めて決意は固まっている。
清廉潔白の聖女としてあり続けていた自分だったが……その全てが今、崩壊しようとしている。否、もう決壊しているのかも。
唯一わかるのは、現在深刻な状況を打破する力を自身は持たないこと。わたくし側の味方は意図的に排除された場にいるという事実。庇った者は皆わたくしのせいで、ありもしない告発を受けると脅されていること……! そのせいで、無闇に動けないでいる。真実を知る者さえも、怯えや恐れ故か、迂闊に行動ができない現状。人質のようなものね。かけられた圧力には、誰一人が口を挟まずだんまりを決め込んでいるのが証拠。
――こうなったのは、わたくしを逃さないためか。
「俺はエルローゼリア・スノーシャインに婚約破棄を言い渡す! お前の行いにそれだけでは、到底俺の気が済まない。お前との縁を一切断つ! 今後俺達の前にもう二度と姿を見せるなッ!!! お前はこの世にいらない邪悪な存在だ!! 近頃の悪事は目に余るぞ、犯人がお前なのはわかっている!!」
しーんと音が消えた会場に一人の声が響く。おぉお、これはかなり、恨まれてる……。緊張感が走り、背筋がぴんとする。
ディアモンド王国の第一王子である、ルシフォンス・ディアモンドは……不本意ではあるけれど一応わたくしの婚約者だ。金髪は太陽のように輝き、蒼眼は晴れ渡り澄み切った果てなき空の色。見た目はまさに、絵に描いたような王子。――――だけど見た目と中身は比例しないのよねぇ……。たまに鈍感、ごく稀に有能で、暴走しがち。勘が鋭く、時に的を射ていたりする。先回りしたつもりが、一周回って反対方向に逆走することもしばしば。
ルシフォンスの言葉に、わたくしは残念ながら心当たりがある。彼がここまで怒りをあらわにしているのも……きッとあのこと。
しかし――近頃の悪事に関しては、はっきり違うと断言させてもらう。犯人はわたくしではない。まさか幼稚な嫌がらせを通り越して……悪夢のような出来事に巻き込まれるなんてね。あまりに度を過ぎた仕打ちではないかしら。わたくしも運が無いわね。望まぬ政略による婚約の末に、人生を棒に振るなんて最悪よ。
肩を震わしつつも、わたくしは言い返したいのを懸命に堪える。
突然言い放たれた婚約破棄。本当全然訳がわからなかった。それどころか、存在否定されるだなんて酷すぎて空っぽな薄笑いしか浮かばない。若干表情が引き攣っているのは自覚している。
ルシフォンスの側でわたくしに嬉しそうな嘲笑を隠さない女は、アリッサーナ・プラチナ。
彼女はフレアエマルージュのサリア夫人の従弟ソルネフ・プラチナ伯爵の娘である。
鋭い視線で睨まれるより、余程不愉快である。アリッサーナは他人の不幸が愉快でたまらない様子だ。救いようのない正真正銘の悪女ではなかろうか。外面を繕おうとも、裏にある黒い本性までは消せていない。ここまでわかりやすいと流石に引く。悪役令嬢を通り越すどころか、極悪で強欲な犯罪者。面と向かったら誰もが後退りするだろう。人で遊ぶ悪趣味な外道。盤上で玩具を弄びいたぶる悪魔。
遊びを極めた上級者(人間を操るゲームにおいて。規格外が過ぎる)というべきか。
ライトピンクの瞳と髪。ブラックのリボンを飾る髪は胸まで長く、黒いフリルの特徴的なドレスと相まって派手な容姿を引き立てている。この女、己の魅力に非常に自信があるようだ。美意識に抜かりない。上から目線で強かな極悪令嬢って風だ。彼女はまさにそれがぴったり当て嵌まる。理不尽が人の形をとったら彼女のようになるのだろうか。
『殺せばそれ以上の苦痛は訪れないのね。生かさなきゃ、痛みを与えられない世の理は理不尽で面倒ですわ。殺して終わりだなんて、そんなのつまらない、退屈なままで終わりたくない。もし無害だとしても、邪魔になるなら一刻も早く殺してでも片付けたい…………それなのに困ったわね。解体しても美味しくないから、楽しい玩具を壊す気はないのだし……はああ……』
わたくしが彼女に潜む狂気に気付いたのは、そんな独り言を聞いてしまったときだった。見過ごせない数々の行い、その核ともいえる心の中を垣間見た気がした。
あざとさより、色気が勝る。誰もが虜になる魔性の魅了術を持ち、高飛車で自尊心がとてつもなく高い。自己陶酔も揺るぎなく全く折れることがない。自己評価なら歪曲して捉え、どんなことであれ脚色通り自分のいいように進める。そして、都合が悪い解釈はしない。
自分は悪くないとか無力な被害者を装う底辺とは格が違う。別格、段違い、あまりにも常識がかけ離れた存在。か弱いふりを演じる必要がないのだ。言葉に誘惑されて、知らぬ間に手駒にされた者は数知れず。内心駒だと見下しているように見えるが、過信や油断とは異なるあの不動鉄壁さの正体は何だろう。絶対的な自信は一体どこから来ているのか……。
いつだって欲望に忠実で、狙った獲物に気持ち悪いくらい粘着質な執着を見せるヤバい奴。他への興味も特になく、手に入れること以外は別にどうだっていい。偏った危険かつ異常な思考のアリッサーナ。欲するものの為ならば手段を厭わず即実行。皺寄せが常に周囲に向かった。欺くことなど挨拶に等しい。毎度毎度わたくしまで巻き込まれて彼女には辟易していた。
恐らく……今回わたくしとルシフォンスの婚約を破談させ、駒と共謀して王妃の座を得ようと目論んでいる訳ではないはず。なにせ相手は稀代の悪人で、自己中心的思想を極限まで極めているのだ。そんなことの為だけに興じているわけではない。彼女には物足りないはず――ならばもっと面白くするためにはどうするだろうか?
ディアモンドとスノーシャインの関係そのものを白紙にして、互いを決裂させる。当然両者は今まで培った信頼を裏切られたのだから、互いを隔てる壁は厚く溝は深く大きくなる。そして絶望のドン底へ突き落とす悪巧み。かわいらしい断罪ショーなら笑えたが、彼女の掌で踊らされた末路は最悪の事態も考えられる。
しかしヤバい奴に弄ばれている状況とも知らずに、呑気で自分勝手なルシフォンスは彼女をサーナと呼んで楽しそうに会話をしていた。こんなのが王子とか…………馬鹿みたいな話だわ。
馬鹿で、正直目も当てられない我儘俺様王子様だけど、今回ばかりは怒り以上にあわれに思う。アリッサーナが満足するまで使い潰される未来が見える。
――――結局彼女にとっては誰であれ玩具止まり。積み木のように組み立てて崩壊させられるオチね。
でも、まあ自業自得だけどね。むしろ婚約破棄はありがたい……ようやく迷惑王子から解放される。感謝はしないが助かった。王子と離れることが、スタートラインに立つために必須のシナリオ。
この王子、呆れる程の素直さくらいしか魅力がないわ。良く言うなら、疑うことを知らない純粋な正直者。悪くいうなら、根っからのポンコツで従順…………単純過ぎて嘘と気付かないで鵜呑みにしてしまう。――己の都合のいいように。彼は一度思い込めば頑なに意地でも曲げようとしないのだ。とにかく無駄に頑固。もっと融通が聞けばいいのに。未だにそのせいで変な方向に暴走してしまうのでいつも悩まされている。
今回の茶番は……そもそも、勘違いしたままの王子が悪いわね。可哀想な人。あんなのに目をつけられた挙げ句騙されて、そうとは知らず今回の悪事や罪状諸々誤解するとは。悪意に満ちた多くの罪の転嫁の数々――――それら全ての元凶は、異次元すぎるアリッサーナの異常行動だ! そのせいでこっちはいらぬとばっちりよ。沢山好き勝手しておいて…………いずれわたくしが懲らしめるから待ってなさい! 絶対に赦しませんので。
アリッサーナは思い込みをことごとく拗らせて、あらゆる悪行に次々と手を汚した。利用できる使い捨ての駒達に証拠隠滅の命令及び口止め、弱みを握り口裏を合わせたり、巧妙な嘘を重ねていくのに、自身の尻尾は決して掴ませない。追いついても、重要な場面で逃げられる。その上でわたくしに濡れ衣を着せている。手回しされる度に手口が凶悪に、そして出口を確実に塞がれていくのだ。何もかもをこちらになすりつけ、貶めようと暗躍する彼女の計画的な罠。ここまで黒くずる賢い悪の道を貫ける者は、他に多くはいないだろう。目的の為とでもいうのか、えげつない非道の限りを淡々と実行できるとんでもない女なのである。隠蔽工作何でもござれ。付け込まれれば、隙を突かれてとどめを刺される。
なんて強靭な精神を持っているのだろう。……それにしては、極端過ぎやしないか。何とも思っていない彼女が不気味で恐怖しかない。
アリッサーナという人物には決してないものがある。不安、焦燥、悲観といった当たり前の感情。喜怒哀楽は喜と楽以外に持たないのだ。怒と哀があるなら少なからず同情はできた。だがどちらもないとすると、もはや話してわかる相手ではない。
共感する気はさらさらないし、したくもない。何を考えているかなんて見当もつかない。だけど……彼女の強く揺るぎない意思や、迷いなく真っ直ぐな姿。それらは今も変わっていないことはわかる。
生きる原動力は求める心だけなのだろうか? 他にないから、あそこまで暴走しているのか? でなければ説明がつかない程の依存。常軌を逸している…………
彼女の言動はどれをとっても罰当たりが過ぎる。正々堂々対峙しようとも、真正面から叩き伏せてくるタイプ。隙がなさすぎて、どこまでが計算の内なのかわからないのが恐ろしいところだ。
――――だけど、黒幕の殺人鬼には到底及ばないなあ。
実は裏で糸を操って扇動し布石を打つ、謎に包まれた"黒幕"がいる。今回も表に出ないだけで何かしら関与しているはずだ。何かの伝手により、あらゆる情報を把握していると専らの噂。存在は知っているが、それが誰であるかは定かでないままである。
仇なす者には死による制裁……それが黒幕のルール。犯行にはどれだけの手間・能力・執念が籠もっているかは理解していた。殺しという一線を踏みとどまる、直接命に手を下さない彼女はまだ優しいほうであると考察している。中途半端な余断を許さぬ黒幕は、彼女の唯一の殺さずを見抜いているはずだ。とはいえ、徹底して他人をいたぶり続けられる彼女は十分に異端だが。
――それでも、小物とは訳が違うんだから! 比較すれば微々たる誤差よ。けれど残酷な殺人鬼兼凶悪犯への道に、片脚突っ込んでるわよアリッサーナ!! 毎度、殺されやしないか肝を冷やしてるわ、こっちは!
「エル、俺はお前が大嫌いだったが信じていた。裏切るような奴だとは思わなかった」
自身の弱みも悪女に知られているのは間違いない。名ばかりとはいえ婚約者同士だったわたくし達の関係。それら全てを粉々に打ち砕こうと告げ口したのは彼女だろう。
「聖女の……光の加護の力について、意図的に俺達に隠していたな……?」
「……」
「何故言葉を発さない。その沈黙は肯定と同義だぞ」
温度のない声が鼓膜に刺さる。
「光の加護。すなわち女神の祝福……それは表の姿。その裏で犠牲の上に成り立った力。そうだろう」
「……」
「お前が俺達全てを不幸にしていたなんてな……聞いてもすぐには理解できなかった。理解したくもない、お前が人殺しだってことを!!」
「…………!」
そうか、王子自身に調べさせれば……よりわたくしを孤立させられる。それが狙いか。
ここから王子に徐々に畳み掛けられていく。
「母上も父上も、お前が七歳になり光の加護を受けた日から、緩やかに確実におかしくなっていった。母上は突然悪化した病状により衰弱死……父上は亡き母上を俺に重ねて、俺自身を見ていない」
「……」
「無知は重罪、お前がよくわかっているはずだ」
「……」
「俺は必死に情報を収集するために動いた。母の不自然な急死に違和感を抱いていた俺は、謎の死の真相を突き止める証拠が欲しかった。だが……裏で何か力が働いている確信があるものの、正体がなかなか掴めなかった」
「……」
「調査を重ねても、確証を持てないまま。そうしてやっと辿り着いた手掛かりは、加護を授けたエルゼ神殿。何かしら掴めると確信していたが、俺を襲ったのは明かされた悍ましい真実。――お前に傾倒する神官達は、重大な事実をエルにも隠し通そうとしていたようだな。逃さないために、エルの命が惜しいなら包み隠さず全て吐けと脅しまでかけた。このとき、全てを知っている黒幕は大神官だと察してはいた。だけど信じられないよな、俺もすっかり欺かれ続けていたのだから。大神官に問い詰めて出た言葉に俺は失望した。優しいと思っていた神官様にお前は騙されて母上を殺したということを」
「……」
「砂を吐くようにぺらぺらと、大神官の口から洗いざらい聞かされた。神官達には一部のこと以外伏せて話していたらしいが、真実全てを知り裏で画策していた犯人は大神官だとわかった。"光の加護と光の魔力を持つ神子様。その偉大なお力を示すため必要な贄だ"と祈りを捧げるように零した。俺は心の底から殺したいくらい憎かったし、赦せなかった。王妃である母上が崩御すれば、最愛に先立たれた父の心は壊れる。そうなれば必然的に、第一王子の俺と婚約者であるお前が最有力の国の頂点になる…………と」
「……」
「――神殿の神官全員に聞いたよ。大神官様は本当に素晴らしい聖人だったと口を揃えてね……ただしお前と出逢ってしまうまではの話」
「……」
「お前は母上を見舞いに来ていた。その度、お見舞いの品を持ってきていただろう。それに微量かつ気づかれない薬を混ぜ込まれていたとは、幼い俺達にとっては知らないほうが幸せな真実。母上は会う度、日が進むにつれて命の火が弱くなっていった。薬の効果は、一般の健常な人間が摂取しても何も起こらない。しかし、例外があり――病を患っていればその悪影響を大きく加速させるという副作用があった。お前も薄々気づいていたんじゃないか……? 母上の死が明らかにおかしいこと。利用されただけではなく、罪から目を背けて知らぬふりをしていたことを! 俺よりお前は賢いから、わかっていただろう――――だからこそ、赦さない。何も話してくれなかったお前が!!!」
「……!」
もっと早く告げていたら……なんて後悔を何千何万回もしてきた。心で何度だって謝った。本当はこんなことしたくはなかった。
――そうできない理由が、今のわたくしにはあるの。
「看取ったのはお前一人だ。父上に連れ出されていた俺は、母上から最期の言葉を聞けなくて……ずぅっっと泣いて泣いて――幾ら泣いても寂しさと悲しさだけは流れていかなかった」
「……」
その想いはよく知っている。嘆きで胸が圧迫される苦しみや……終わらない悲しみ。幾度となく経験したからこそ、誰よりもわかっている…………
「お前の罪は、母上を殺したこと、今までの信頼を裏切ったこと」
「……」
「当時毒と知らなかったとはいえ、手を下したのはお前なんだよエルローゼリア。罪の意識があるのなら、もっと早く……お前の口から聞きたかった。それならまだ、お前を憎しみの対象にはしなかった。でも、俺の見込み違いだった……!! 信じられなかった。のうのうと生き、母上を殺した罪を無視して、無かったことにするお前のことが!! ……罪深いお前なんか認められる訳がない――――お前の存在が俺達の平穏な日々を奪った」
「……」
「しかも大勢に非道を繰り返しているというではないか! 疑いの余地はない。釈明を聞くつもりもない」
あ、やっぱり罪が大幅に加算されてる。気のせいじゃないな。くぅっ、巧妙に言い包められたか。その発言の内容の一部が、既に矛盾だらけな嘘なのに。もしや、馬鹿は言われた後になってやっと気づくのかな??
無言で静かにルシフォンスの声を聞いていた。わたくしは感情を堪え、言葉をぐっとのみこむ。本気を出すのは今ではない。余計な言動をとれば命取り。いらぬ消耗で全てを失いたくはない。
「光の加護があるというが、それは神殿で告げられたありもしない願望からくるデタラメだ。生憎、世間の噂や迷信なんかに流されるほど落ちぶれていない」
加護は、存在する。何度もわたくしを危機から、絶体絶命の窮地でも救った。毎回決まって、誰かの命が散ったけれど。義妹さえもその例外ではなかった……。光の加護の罪深さはまさにそう、わたくしが死ぬはずだった定めを捻じ曲げ他人に転嫁している性質にある。枷であり鎖。逃れられない宿命なのだ。
わたくしは、手を汚さずに人を殺しているようなもの。だから他人となるべく距離は置いたのに。自分が悪いんじゃない、光の加護が悪いから、運がないからだと……思いたかった……! こんな力、欲しくはなかったのに……!!
全部知っている、だからわたくしはそれを告げられない。本当のことは、言えない。恨まれても構わないし、赦されなくてもいい。ただはっきりしているのは……真実を言ってしまえば、全てが悪夢の通り暗黒へと葬られる定め。築き上げた計画を台無しになどできない。今を耐え抜く以外、わたくしにできる術はない。
女神のお告げか、光の加護のせいかはわからないが……毎日危険を予兆する摩訶不思議な悪夢をみた。だから最悪の事態を避けるために行動をしてきた。わたくしの存在は、時を揺るがし運命の軌道を脅かすという内容。調子に乗って下手な運命操作をしてしまえば相応の報いを受ける。
中でも特に光の加護。そして黒幕の正体に近づく為に、自ら動き直接関与しようとする行為。この二つは大きく影響する。黒幕本人に探りをいれようものなら……逃れられない終わりが訪れることは必定。それらの選択は慎重にならざるを得ないということ。場合によっては黒幕の手による策略、もしくは何かの弾みで確実な死がやってくる。行動次第ではこうした残酷な末路、つまり回避できない死の定めが待つのだ。光の加護にはこんなときこそ活躍してほしいのに――何故かこの死は防げない。不便な力。肝心なところで無能で役立たずなんだから……!
他にかろうじてあるのは、死に戻りという方法のみ。黒幕に関する記憶を全消去したら、その瞬間まで時を遡り再度やり直せるのだ。だが、死んだ痛みは心に残る。女神に与えられたこの保険についてだが……実は万能ではない。何の代償もなければ苦労はしないというのに、そこまで親切ではないのが欠点。
死に戻った際に、それまでの途上で死んだはずの人間が記憶を失い生き返る。ただ一人、わたくしのみが記憶を引き継いだまま。それに加え、周囲でわたくしに関する記憶は改竄されるという。わたくしの存在が相手の中から消される。……生き返っても、居場所も、頼れる者もゼロからのスタート。しかも、記憶や死に戻るまでの経緯=前世の話をしたら――――女神曰く、口にはできないような、とっても恐ろしいことが起きるという。なにそれ、ヤバい。八方塞がりじゃないか!!
――存在が記憶から抹消されるなんて、こんなのただの拷問ではないか。この孤独に到底耐えられる気がしない。ごめんこうむる。
絶対に、生きてこの命を全うする!
よって、わたくしは運命を変えることの反動を……痛く重く理解しているつもりだ。夢の中で、何度でも殺された。目が覚めると、毎回決まって黒幕の正体に関する記憶だけ消えていた。わかったのは、夢で死んだということ。心が浮き沈みすれど、それでも精神を病まなかったのは――あくまで夢の中での出来事に過ぎなかったから。
今ここで大きな行動を起こしてしまうと、夢の通り運命に殺される未来だ。故に光の加護について箝口令を己に強いているのはこの為である。表立って、光の加護は存在していると打ち明けることができないとなると――どうしても行動は限られる。
誰が黒幕かわからない今、迂闊に手出しもできないのであれば…………黙り込んで心にしまうことしか方法はない。
「ルシフォンス様、その低俗で野蛮な女など捨てて私の手を取ってくださいますよね……?」
可哀想さを微塵も感じさせない。同情を狙っただけの不敵な明るい笑顔。罪を気取らせないように猫を被り、平気で演技を真実と刷り込ませる。罪を上乗せさせ愉悦に浸る姑息で卑怯な腹黒い人形使いの女。そんな彼女であろうとも、黒幕にしてみれば盤上遊戯のための人形であった。
「あぁ、そうだな……俺はサーナの手を取る」
アリッサーナは勝ち誇った顔で王子と手を取り合い視線を交わす。知らず知らずの内に親しく呼ぶ程の信頼関係が結ばれているのは間違いないようだ。
二人とも、因縁であるわたくしに反抗する機を伺っていた。この場でわたくしの過去と罪状を周囲に見せしめる為に。だから、一時的でも利の一致する同盟相手が必要だった。――例え偽物であろうと。王子に課した役目を代わりにできる者がいないため、むらっけがあり制御に難のあるルシフォンスで渋々強行させたんだ。
仮とはいえ仲間同士の協力が不可欠だったのね。完封し仕留めて意気消沈させる為に、今回はわざと王子を独断行動を許したのか。そうして、時が来るまで泳がせておいたというわけだ。
悠長に構えていたのが仇となったらしい。ピンチだわ。
当時の自分に言い聞かせたい、もっと早く対策しておきなさいって。ほら言わんこっちゃない、こうなる前に迅速かつ丁寧な対処を心がければ防げたかもしれないのに。――後になった今では、幾らでも言えてしまうわね。あのとき何か出来ていたら、最善を尽くせたのであれば――――なんて、泣き言は言ってられないわよ。こうなるまで事態を悪化させた自分が悪い。
悪魔と同等かそれ以上な性格の悪さを持つアリッサーナ。そのことは身を持って実感している。あの目は、まるで――
『貴方で遊ぶの楽しいわ。もっと愉しませてくれるんでしょうね?』
という心がそのまま反映されているようで……。蔑みとは何かが根本的に違う気がする。これは遊びの駒を駒として見下ろすだけの目だ。玩具を傍観する、余裕たっぷりな表情である。絶対の自信といい、心が鋼の硬さを誇っている。瞳は刃のように鋭利で、氷晶のようだ。
なんというか、うーん…………いらいらする。腹立つ、殴りたいわこの大馬鹿王子が! こっちは命がかかってるの!! なんでわたくしが断罪されて超腹黒悪女の好きな筋書きにされていくのよ。
どれも事実ではあるが、全てが真かと言われると違う。……発言の中に明らかな矛盾と嘘があるから。――何故わからないの、真実を見つけて……本当のことを知って欲しいのに……! 今の感情は意味を成さないのは目に見えている。愚痴や本心を自由に叫ぶことも出来ないなんて……! そう思っていれば――
「見損なったぞ、人でなしの悪女エル! 貴様が女神から光の加護を受ける聖女? 馬鹿馬鹿しいッ!!!」
「……ッ!!」
世界が真っ暗になって独りぼっちになったような気がした。心に激痛が走り強い衝撃が襲う。こんなに大声で激情を向けられることなんて、なかった。まさか、ルシーに否定されるなんて。拒絶された……!?
――いや、弱気になるな……奴の狙い通りに動かされてたまるかッ……!
だがしかし、少しの思考すら与えさせないこの女。あっさり王子を信用させ懐柔し操っている。王子に直接決裂を宣言させたことは、わたくしの心の急所を的確に突いている。一体どんな言葉で籠絡したのか。信頼を得るためどんな愚劣な手段を使ったのか。どうやって取り入ったんだ。
――――負け目しかない……終わりだ。
これはもう、手に負えない。これ以上は私の立場が危ぶまれるだけでなく、悪とみなされて拷問されるかもしれない。あの女には、そう仕向けさせる力がある。傀儡にされるのはごめんだ。
「衛兵! エルを捕らえよ。チッ、この大罪人がッ…………!」
偉ッそうに吐き捨てられた。舌打ちも聞こえてるし。感じ悪くて嫌な奴。
……お前何様よ(怒)。そろそろ八つ当たりしたいし、イライラを抑え込むのが限界なのだけれど……! 王子の権力を堂々と間違ったほうに振りかざすな! 荒ぶる内心を気取らせないように、必死に堪える。
「この期に及んで逃亡は却下だからな――おい衛兵! エルを殺さず速やかに魔女の森へと連行させよ! せいぜい、痛い目に遭って絶望するがいい。生きて地獄に堕ちろ」
魔女の森は、行ったもの全てが死に至り、魔力を奪われる森林地帯。毒霧に覆われた場所で少しずつ衰弱していき、藻掻き苦しむ終わりのない地獄の環境…………皮肉にも、わたくしの罪状にはぴったりね。暗黙の掟として、ここに送られた者は死の館の魔女に魂を抜かれるらしい。魔女は美しいものが大好物の化け物、と呼ばれているとか。
森は難解で複雑な大迷宮。入り込んだが最後――時間の感覚を失い、彷徨い続けるだけ。
題名は思い出せないが、魔女に関する詩を過去に読んだことがある。作者不詳で有名な詩。
題名は"無題"だった。
"魔女の森って知っている? 生きて出られぬ闇の森"
"迷い込んだら霧の中 毒がもくもく森の奥"
"館に魔女さん独りきり 美しいもの探してる"
"見つかったらああ大変 逃げられないから諦めろ"
"魔女さん化けると あら不思議"
"姿が変わって 怖い怖い"
"魂抜かれて 食べられる"
"骨も残さぬ灰となり 森に撒かれてもうおしまい"
おわり。
なんとも後味が悪いッ!! 灰になる気はないわ!
多分……大丈夫よね。いつか必ず、明るい希望の兆しはやってくるはずだから。
今回ハズレくじを引かされて、悪者かつ晒し者にされたわたくしは、命運ここに尽きたりのようだ。嘘も堂々と言い渡されて、バッドエンドのまま退場するなんて嫌。いつか見返してみせるわ……! ――――例えどんなに絶望的な状況だとしても。ひっくり返す力を、私だって秘めているんだ。
煮え滾るマグマのようにふつふつと吹き上がる怒りの泡。から元気かもしれないが、己をどうにか奮い立たせた。
衛兵は裏でアリッサーナが金で買収した人間。逃がしてはくれないだろう。
こんなとき、王妃様が健在でいらしたら……!
王は第一王子に親バカで甘過ぎる。王妃様を失ってから、ルシフォンスを溺愛。…………甘やかし過ぎたせいで、王子様であろうに、生意気な子供のままに成り下がってしまった。良識はあれど、忠告を素直に聞かないのが玉に瑕。
こうは言っているけど、己も悪い……。王子にこんな風に思っている資格なんてない。結局、こうなったのもわたくしにも責任があるのだ。王子よりも、余程醜く罪深いかもしれない。
王妃ルルシェ様は常に凛として、優しさと厳しさを履き違えず、ルシフォンス様を想い続ける憧れの母君だった。苦言も第一王子の未来を想ってのこと。愛に溢れていた。行く末を最期まで心配していた。憂いは晴れないまま、逝ってしまわれた。
『たった一人の我が子……どうか誤った選択に己を堕とさないで。ルシーをよろしくね、エルちゃん』
見舞い品に仕込まれた"何か"についてはわたくしが既に見破っていた。毎度こっそり自分一人で完食していた。例えどんな致死薬でも、わたくしにある光の加護が守ってくれる。しかし、そのお節介が悲劇の火種になった。死の定めに関与したことで、大きな影響が出た。一つ目、ルシフォンスは早まった王妃様の最期に立ち会えなかった。それにより黒幕にわたくしの目的を勘付かれてしまった。よって二つ目、真の黒幕への復讐の予定を先延ばしにせざるをえなかった。
だからこそこの能力についてよく知っており、自分一人で秘匿している。
王子の恨みの矛先はわたくし一人でいい。他の人まで道連れにしたくない。
神官様にはもとより悪意や害意はない。同意を得たうえで一芝居買って出てくれた。見舞いの品の薬は、裏で動く黒幕が糸を引いているのはわかっている――女神に心身を投げ打てる神官達が、見え見えの愚行をするとは考えられない。やるからには、徹底的にやるだろうから。
――真の黒幕とは、そうも容易く姿を見せはしない。別にいるのだと確信を持っている。どこにいるかは予測しようがないのだ。
わたくしもわたくしね……。全てが善意の協力とはいえ、かなりリスキーな賭けをしていると思う。真の黒幕を誘き出し、引導を渡して終止符を打つためには必要なことなのだ。最後の決着は、わたくしがつけなくてはならない。
――毎回、誰にも告げずに、王妃様の墓に一人でお参りしていた。静かに花を添えて、手を合わせて冥福を祈り、その場を去った。
今までわたくしは亡き王妃様の想いを継ぎ、第一王子である婚約者と国を想い多少はキツい叱責もしてきた。………はずだった。なのに……なのに、何故。
『――力不足だから? 弱虫で、意気地無しで、真に受けて、目を背けて、逃げてばかりだから?』
本当はわかっていた。取り返しのつかない事態を招いたのは、わたくしが力及ばないせいだった。
霞む意識。私は力が抜け脚から崩れ落ち、気を失いそうだった。
本当は……泣きたい。でも、駄目。泣けない。
怖い、悲しい、辛い、苦しい。目の前にいる婚約者の心すら救えない自分が惨めでやるせない。過去を、思い出を、王妃様の願いを打ち壊すような事態を起こさせてしまった…………その事実は鋭い棘となって胸を貫いた。聖女といわれながら、わたくしはその約束を守れてはいない。
愚かなのは、わたくし……大切なものを踏み躙らせてしまう自分だ。
涙が溢れて、記憶の欠片が散らばって、視界がぶれて、焦点が合わずに潤んでゆく。
(ごめんなさい、ルルシェ様……!)
ぽたぽたと落ちる涙。
――――堪えてきた想いが、涙腺と共に決壊した。
濁流のように渦巻く懺悔。湧き上がる苦痛の波。押し寄せる怒涛の感情にのまれていく。心に針のように刺さる言葉達。無数に穴を空けられて、蠢く糸で縛りつけられたように辛い。
息が苦しい。喉が泣き声で掠れて使えない。
それでも! 今を諦めたくない! 誰も助けてはくれない。そうであれ構わない。例え、どんなに苦痛な現実を目の当たりにしようとも。心を、強く持つの!!!
わたくしには確かに、罪がある。
衛兵が少しずつ、わたくしに近づいてきた音が聞こえてきたが。その場しのぎの抵抗など、できそうにないな。
諦めて、瞬いた睫毛の涙を拭った。力んだ躰から自然と抜ける重圧。
最初の明るさが嘘みたいなのよね。冷たい空気に唖然となる、殺伐としたパーティよ。凶運、厄日、なんとでもいい。本当……王子と悪女とわたくし以外、時が止まったようだったわ。
わたくしは、地獄のような急展開に見舞われ……心がずたぼろだった。意思と関係なく涙は流れ続ける。
ただ、ぎゅっと目を閉じた。そして薄めた目をはっきりと開いたら
――視界がその瞬間、暗転した後に光に包まれた。
「………………!!!」
眩む景色に思考も真っ白になったのだがその刹那。
躰が透き通ったように、重力の壁を超えて飛ばされたような感覚に包まれた。
「キャアアァッ………!!!」
虚しく響くわたくしの悲鳴が木霊し、気がつくと
――――いつの間にか、視界には見知らぬ景色が写る。
(え?????)
その光景には絶句してしまう。吃驚して腰が立たなくなり、へたりと座り込んでしまった。冷たい床の感触にさらに驚いてしまう。
「ひゃ……!」
磨き抜かれた艶のある石造りの床。滑りも手触りもいいさらりとした床面。
ここは、どこ?? 今は夜なの? 辺りが暗く静まり返っているわ。
真っ直ぐ続く廊下には、大きな窓が等間隔に並ぶ。透明で鏡のような硝子の向こうから月が見え、光を浴びた白い床が光っている。真横の窓からも注ぐ月光。丸い月が煌めいて美しい。
辺りを見回してみる。天井も壁も床も、主に白を基調としたデザインだ。ところどころに見受けられる、丁寧に彫られた見知らぬ綺麗な文様。白木の深い模様の窓枠。装飾には銀細工が散りばめられていて、思わず見入る。些細な所までこだわり抜かれ洗練された空間である。
外には森も広がっているのが、月明かりで視認できる。強い夜風が吹いているようで、木の葉のざわめきが聞こえる。窓はびくとも反応を示さない。
空は真っ黒。月は真っ白。その対比にぼっーと魅せられる。月が闇を吸い込むように眩しいので、思わず感嘆を吐く。
そして、気付いた。窓に写る自分の姿に。
「えっ……? ドレス、いつの間に変わっている?!」
先程までぼんやりしていた頭が覚醒する。
自分のドレスを確認してみる。
あれ? 優しいベージュの色合いのプリンセスドレスになってる。どうしてかしら?
し、し、しかも……左手の薬指に輝く、これって、指輪!? ピンクの石が光ってる。
――――それに。わたくしが常に感じていた光の加護が消えている……? 源にあったとめどない光の気配が全くない…………夢みたいだわ。己の死を転嫁する性質は厄介かつ制御不可の呪いだったから。解放されて、肩の荷が降りた気分。
疑問に頭を抱えていると、既に涙は消えていて……わたくしは動揺と困惑の狭間の思考のまま、立ち上がった。
その後、急に背に衝撃を受ける。振り返ろうとしたら……
そのとき、耳元にはうっとりと聞き入ってしまう甘く低い声が響いた。全く聞き覚えがない安らぎの声色が聴覚を犯す。
「つかまえた」
文字起こしすると、語尾にハートがついている気がする。ご機嫌な声だから、多分音符もついているわね。
とても形容し難いが、この声は、ええと……耳が死にそう!!
震える睫毛の下で瞳が揺らいでしまう。戸惑っていると優しく温かな体温が包みこんだ。
「迎えに来たよ、愛しい愛しいエルゼ……」
耳元で囁かれると耳が熱くなる。な、何?!
囁かれてわかった。砂糖漬けさながらの甘さ……この声だけで百人中、百人が失神もしくは心肺停止して灰になりそう。
急に愛称で呼ばれた。エルゼって……まさか女神様と同じ名で呼ばれるなんて、これが初めてだわ。この人と逢ったことなんて今まであったっけ? 知らない。彼は私の名前を知っていて、親しげだけれど。
「忘れたなんていわないよね」
強引に向き合わされると、左手を取られ指輪を嵌めた薬指に口づけが落ちてきた。かすめる唇の感触に全身に電流が走るようだった。
「ほら、おまじない」
左手薬指を触れるか触れないかの絶妙な加減でなぞられる。
近過ぎる!! 距離感が、恋人!!??
「ピンクトルマリンの石言葉、知ってるでしょ?」
え、え、忘れる以前に知らないのだが??
それより、今されたのって……
というか……ええぇええ!!!!!!
わたくしは、硬直して思考停止した。ぼふんと真っ赤になる。
だって、こんな絶世の美青年とは出逢ったことがないもの。これ程の美形なら、忘れるはずないのに。
とてつもなく精巧で、三度見する程に綺麗な顔が月光に照らされる。
背はルシフォンスが嫉妬しそうなくらい高身長。暗く地味な色合いの服でも優雅に着こなしている。どんなにシンプルな服装でも、持ち前の美しさならば全て似合うことだろう。
少し長めなミルクティーベージュの髪がさらさらと揺れ、目元に影を落としている。二重瞼の切れ長な瞳は、妖しくも美麗な淡いマゼンタの宝玉。あれ、指輪の石と同じ? お揃いの色味だわ。
艶のある月のような柔らかい髪を、背の辺りで緩く束ねている。優美にまとめる無地のリボンは紺色。彼の髪色を一層引き立てた。
肌は白く人形よりも整った容姿だ。容姿だけで神として祭り上げられて尊ばれそうね。――別に羨ましくなんかないけど! 人が神に取って代わろうなんて、烏滸がましいにも程があるわよね。神々しいからって、ちょっと言い過ぎだったかも。
惹かれてやまない色彩に、月光でさらに魅せられる。
儚げで柔らかな月光のような印象。そこに夜の凍てつく冷たさはない。
てっぺんから爪先まで、本の世界から飛び出したみたいに見目麗しい。彼はミステリアスで心惹かれる美しさがある。
うっとりと凝視してしまった。じっと見つめている目が合う。見惚れて絶句する。
とてつもなく端正な顔が、優しくほどけてわたくしに微笑みかける。
「もしかして、僕に見惚れてる……? 照れるくらい情熱的な眼差しだ。あまりの眩しさに焼かれそう」
あれ? ガン見してたのが、そんなにわかりやすかったか?!
「手放したくないなぁ、僕だけの天使。末永く囲って閉じ込めていたい」
子供のようなあどけなさがありながらも、大人の色気はそれを凌駕する。どれをとっても美に満ちあふれて様になっているのだから、世の老若男女全員が跪き切望する美貌とはこのことだろう。いいや、これは生きとし生けるもの全てが平伏す……のほうが正しいかもしれない。見目だけを言うなら、好きにならない要素がない。
腕を引かれて抱き寄せられてしまい密着した。
今、見知らぬ美青年に背後から強く抱き締められている。気付けば指を絡められていて隙間なく重なっていた。
彼の左手の薬指にもお揃いの石の指輪が嵌まっているッ?! え、え、え?!!
う、うぅ、嘘ッッッ!!!
顔が熱くなる。い、異性とこんな近い距離で、さっきも口づけなんて、初めて、だし!!! 何なの一体。どういうこと。
意識するなと言うほうが無理な話だ。息遣いや鼓動……表情や声。嫌でも意識してしまう。そのせいか、視覚聴覚にとどまらず嗅覚までもが彼に支配された。
い、いい香りする…………って、ああ! わたくしは変態じゃないわ、何考えているのよ!
――すぅ、はぁっ
前言撤回です。上品な香りを堪能してしまいました。深呼吸だと誤魔化せるかな……?
ホントに、いい香りだ。柔らかで穏やかな……フローラルで爽やかなアイリス。
「……? やけに甘えたさんだね。好きでしょう、この香り」
ビクッ! あれぇ…………まさか嗅いでたの、バレてたの?!
焦って離れようとしたが。彼は爆弾発言を投下する。
「だぁめ。遠慮しないで身を任せていいのに。この香りも大好きなら、なおのこと我慢しないで。エルゼのことなら何でもわかる……君の躰が何を求めているのかもぜーんぶ」
さらりととんでもないこと言わなかった?!!
今更だけどわたくしの心を読んでる?! 好みまで的確に当ててる!? まさか、知り尽くしてたり……?!!
失神するわ、こんなの。地雷の罠には今度こそ引っかからないぞ。もう動揺しません。
「僕の名前、知ってるよね。いつものように呼んでみて?」
耳元で囁かれると凄く擽ったい。
動揺……しない、なんてできるはずがないだろう!!
「やっぱり耳が感じやすいんだね……?」
いじわるく耳元で囁くのをやめて…………耳が限界。
「呼んでくれなきゃ、いっそキスで窒息死させてあげようかな」
耳元でざわざわと不穏な言葉が襲う。――え、ええ?!! 脅迫? 殺されるの……?!
内容の物騒さに反して、声は砂糖山盛りで吐きそうなくらい甘々である。やめて……このままじゃわたくしが糖分過多で死んでしまいます……
彼の鼓動を背に感じる度、心臓の音も早まっていく。警鐘を鳴らすような心音は、とても大きく聞こえた。
「敏感な耳をいじめるのも、いいかも」
「ヒェッ」
耳に触れられ変な声が出る。鳴り止まない鼓動にぐるぐると頭が回る。
今の時間は夜とはいえど、あまり寒くはない。そのはずだが、寒気で身震いする。
――なのに躰のほうは体温を上げている。熱が、引かない。火が点いたみたい。
そんな中だった。彼は突如として、半ば強制的にある提案をしてきたのだ。初対面早々に、一体なにをするつもりなのだろうか。
「今から僕と賭けをしようか、エルゼ」
「ほぇ??」
「僕がゼロまで数える内に、君が逃げられなかったら僕の勝ち。力尽くであろうとも殺す気でいない限り、君の負けは確定だから……そのつもりで」
「どういうことぉっ!?」
「五……四……三……」
負けたらどうなるのか、という疑問に応えないまま――彼は数字を呟き始めた。淡々とした声はカウントダウンをする。夜の静謐の中、廊下に響く彼の声はしっかりと聞き取れる。凄く嫌な予感がする……!
これ以上は身の危険を感じ、ガタガタと震えながらも距離をとる。意外にもあっさり腕を抜け出せた。
しかしそれを見越していたかのように、気づけば再び距離が縮まり、わたくしはじわじわと壁に追い詰められていた。
壁に両腕を置かれ、わたくしは手を押さえつけられてしまう。今度は逃さないという強い意思を感じる。
マゼンタの瞳が突き刺さり、声もあげられない。胸がキュンというより、ギュッと鷲掴みされたような衝撃だった。
どうにか動きたいけれど、いつの間にか彼の腕の中に囲われている。力は強くて抜け出せない。針を刺された標本のように、自由が利かない。
「二」
――ときめきで心臓が壊れそう。
俯いてどうにか紅くなった顔を隠す。
どうか、勘違いであってほしい。そうでなきゃ絶体絶命だわ…………! もしもさっき言っていたことが、本当だとするなら……心の準備が! 光の加護が消えたこのままじゃ、本当に窒息死してしまうかもしれないじゃない?! どうすればいいの!!
細くしなやかな身でありながら、わたくしを捕らえる力は一向に緩まない。
冷静という単語が遥か遠くに飛んでいってしまっている自分には、声を出して逃げるという選択は消えていた。
「一」
数字が、一になった瞬間だった。力が緩んだと思ったら彼に正面を向かされた、頬に手を添えられる。心理的にも距離的にも追い詰められる。
「……ゼロ」
直後、昏い笑みの彼を見上げた途端に顎を掴まれ、距離がゼロになる。嬉しそうな目が細まった。
いきなりの出来事に思考の余地は与えられなかった。うっかりぽかんと口を開けてしまう。
観念してわたくしは目を閉じた。
チュッというリップ音と共に、ファーストキスを呆気なく盗られる。
「ん…………」
「ふ、ぁ…………」
ああ、終わった。死因はキスなんだろうか。わたくしは僅かに抱いていた希望を意外にもあっさりと捨てた。
本当に、初めての口づけだった。
僅かに開いた隙を逃さず唇に舌が入り込んできた。吸い付くように口内を蹂躙され、されるがままだった。
ロマンチックで幸せなムードのキスは、小説の中の軽い触れ合いのみだと思っていたが……今一度考えを改めたほうがいいかもしれない。
「……ふぅ……ん」
拙く子供がするようなキスではない。キスはキスでも、とびきり濃厚な甘さなのである。それも恋愛経験ゼロの自分には大変刺激が強い。…………死にそう、色んな意味で。
深く舌まで絡め取られ、呼吸を許さない。喰らいつかれた唇に無自覚に蕩ける声。こんなに甘い声が出るなんて思わなかった。息も顔も、酷く熱くなっていると思う。
随分と手慣れている。上手過ぎる。さては、恋愛上級猛者だな……!
溶けて混ざり合う吐息。気持ちよさに、抵抗できなかった。こんなの、知らない。
羞恥が火口まで迫り、ついに限界を迎えて派手に噴火した。わたくしの頭は熱に犯されてしまったのだ。
何もかもが未知の感覚で脳が働く前にショートする。……次をもっと欲しくなりそうな感触だった。
彼の服を指で引っ張って抗議したつもりだったが、弱いそれはおねだりに写ったようで意味は成さなかった。
「……んぅ」
何、これ。
これが、快楽なのだろうか。溺れて窒息しそう……。穏やかな快楽の波は口づけが深まる度に激しくなる。酸素を欲して荒くなる呼吸。徐々に躰に力が入らなくなっていく。
抗おうと藻掻く度、彼は呼吸ごとのみこむキスを長く、深く、甘くしていく。頭の芯が痺れて溶け、躰を保っていられない。脱力し、放心してしまう。腰を支えられてどうにか立っている状態。今も彼からの口づけを受け入れ続け、口内全てを隅々まで翻弄されている。
やっと、互いに温度が移った唇が静かに離れた。
「今回も僕の勝ちだね。嫌なら手を上げてでも逃げたらいいのに」
「――わたくしの手で……誰かを傷つけたくないもの」
他人に暴力を振るうまでして抜け出すことが、自分にはできない。
「君はどこまでも甘いな、あまりに優し過ぎる。僕は君になら、傷をつけられてもいいのにね」
「……」
すぐに文句も返せなかった。
「傷つけられたからといって、別に減るものじゃないし」
減るわっ!! と、心の中でツッコミを入れた。
「いじわる……ずるいっ」
息苦しさに涙ぐむ。涼しい顔で息を乱さない彼に、ずるいと抗議したものの……弱々しい声しか出なかった。むしろこっちは怒ってる。どのくらい長くキスされたのよ!? 窒息死するんじゃないかって、本気で焦った!!
「いじわるされたい欲張りはエルゼのほうだよ。癖になってるのはお見通し。――ずるいって褒めてるの?」
にっこり。
褒めてない! ……でも、ぐうの音も出ない。
「――凄くそそる。潤んだ瞳も、蕩けた顔も、熟れて濡らされた唇も、香る肌だって全てが、ね……。もっといじめたくなるな……そんな顔で言われても逆効果。どれだけ無自覚に僕を煽るつもり。自制が効かないくらい、かわいいんだもの……僕には余裕がない」
「もう駄目だってば……………ぅ?!」
拒否しようと手を割り込ませたが、すぐに剥がされた。
「ええぇ……!」
「こうまでされると余計に悪戯したくなっちゃうから困るなぁ。物欲しそうな顔で言われれば、一層もえるに決まってるじゃない?」
「……ヒェッッ!」
困った様子もなく、唇を湿らせながら言われてしまった。マズいって……!
「かわいい……かわいい、かわいい。たっぷり、かわいがってあげなきゃ」
とろりとした声と表情。しかし瞳にはどろりとした澱みがある。
「拒否権はないんですか!? これ以上は心臓が止まりそうなのでご遠慮願います……!」
「もちろん却下ね。心臓を高鳴らせ壊すようなキスを贈らせて。僕のキスに心臓をバクバクさせて、しかも止められるなんて――最高だよ」
儚い願いは一蹴されてしまう。
このままじゃ――
「ならば、なおさらだ。この程度は序の口だって、痛いくらいにわからせてあげる」
「……んんぅっ!」
意味深に口元が弧を描いた直後。紅潮していた頬を撫でられて、有無を言わせずにまた塞がれる。後頭部を掴まれるとぐっと距離が縮まる。
「……ぁ……ふ!? ……んんん…………!」
まだ飽き足らず、しかも噛みつかれて痛い……これだと一切抵抗できない。
鉄の、血の味がする。痛いよぉ……なんで気持ちいいの?
「――堪らなく美味しい。君の躰を流れる真紅の雫が」
唇に滲んだ血液を舐め取られると、躰がぞわっとした。
以降は彼に完全に身を委ねてしまっていた。見ず知らずの人に流されるまま口づけされるなんて。
「んんぅ……!」
息も絶え絶えなのに、終わらせてくれない。動きを封じられ、好き放題されている。
躰全体が沸騰しそうだ。そんなわたくしに興奮したのか、呼吸の間を与えずにさらに貪られる。熱い視線と息遣いで心臓がドキドキどころかドドドッと早く脈打つ。
「――んっ……ふ……」
最初からずっと、ディープ。大人のキスというやつだろうか。恋愛初心者なのに、わたくしってば一気に階段を登り過ぎではないのか。
「……んんっ」
――もう駄目。快楽に溺れて抜け出せない。彼のキスには抗えない。躰は従順に彼の口づけを受け入れている。気持ちいいもの……。
「んんっ……んぅ……!」
酸素を奪われて、呼吸が苦しい。意識が持っていかれそう……。躰が震える。彼に縋りつくことしかできない。
「んんんっ……!」
なんて、重い求愛なのだろう。愛欲に忠実で貪欲な、思考までまるごと奪うキス。軽くなるどころか益々深まるので、苦しくて酸欠になる。
長い。あまりにも、長過ぎるのだ。どんなに飢えていたって、流石にこれは……度を過ぎているのではあるまいか。
「――――はぁ……はぁ……」
なんとか解放され、必死に酸素を取り込む。な、何も考えられなかった。
初めて唇を奪われたにも関わらず、嫌ではなかったのはなんでかしら。凄く心地よくて癖になりそうで……っていけない、わたくし何を考えているの?!
わたくしは言葉にならない想いで、涙を落とし――
「こ、殺されるかもって……窒息死させられるかと思って、怖かった……!」
思ったよりも掠れた声が微かに漏れただけだった。
涙を擦ってどうにか強引に拭う。
「――ひぁんっ!?」
目元の涙を舐め取られた。躰が水飛沫のように跳ね上がり、ねっとりとした感触が触覚を侵食していく。
「涙の味がする。駄目だよ、無理に擦っちゃ。目元が腫れてる」
まだまだ余裕だと言わんばかりに、晴れやかな表情で告げる彼。心配して忠告までするのだ……かなりの余裕があるのだろう。
「――本当に、心の準備すら待たずに、キスが長くて窒息しそうで怖いのに…………」
依存するのが、さらに怖い。
「へぇ…………危機感を持ってくれてなによりだ。まさかキスだけでそこまで感じてくれてたなんて……ねぇ」
「ヒ、ヒェッ……」
寝耳に水で、顔から火が出そうだった。
「そんなに怯えないでよ」
さっきと変わらず綺麗な笑顔なのに、底冷えするのは何故だろう……。ブルブル!
「――本当に、死ぬかと思ったんだから……!」
「そう? 冗談のつもり、だったけど――――それってキスで殺されたいってことかな?」
必死になって首を横に振った。嫌よ、絶対死にたくない。
「からかっただけさ。――ああもう、その顔は反則。かわい過ぎて……このまま押し倒して、もっと欲しいくらいには効果抜群だよ」
「ヒャ……」
恥ずかしげもなくなんてことを言うんだ。こっちはいっぱいいっぱいなのに。
わたくしの頬に指を滑らせ恍惚とした声と表情をする彼は、一体何者なのか。こ、こ、怖ッ…………もし続いてたら、逃げ時を奪われ陥落されてたかもしれないと思うと――
「続きは寝台までおあずけ、ね?」
極上に色っぽい声で囁かれ、ぞくっと震えた。砂糖と果実を限界まで煮詰めたような甘露さを含んでいて、冷や汗が伝う。誘う一語一句が過激過ぎやしないか。
クスッと彼の唇は弧を描く。少しの仕草も魅力的で、目を逸らすことができない。だけど……今、なんて言った?
「……あ、ぁあの!!」
いろんな感情がごちゃ混ぜになりながら、なんとか口を開く。不自然に上擦った声が出て、恥ずかしい。
「わ、わたくしのこと、知っているの? あ、貴方は誰なの」
そう言うと正面の彼は、目を丸くした。
「――――エルゼ? 急にどうしたの」
声も瞳も飴のように甘ったるいが、不安げだった。胸焼けしそうで、心臓がいつもの何倍も早く跳ねる。緊張で落ち着かない、ちっとも冷静になれない。
「わたくし、一体今どこにいるの。どういう状況なの」
不思議そうに瞬く彼は、首を傾げている。
「結構混乱しているようだけど、いいよ。教えてあげる。僕はヴィルシアント・スノーシャイン。旧姓はシェイドクローズ。今、君と同じ二十一歳だよ。エルゼは僕をヴィーって呼んでいて、出逢ってから結婚一周年の今日まで続いていたの。君は僕の希望の光で最愛のお嫁さんなんだ。ここは、僕達の家。僕ら二人だけの帰る家。――君と僕だけの世界へようこそ」
「?」
う、うわっ……信じられない。この人がわたくしの旦那様だなんて。ありえるのかしら、これは恋愛願望故の現実逃避の夢??? やけに現実的なのに。
しかも闇を司るシェイドクローズ家!?
視線が彷徨い戸惑う。
「信じたくてもすぐにはのみ込めないって感じだね? 僕もそうだよ。けれどこれは夢なんかじゃない。さっきのキスでわかってるよね……? 夢になんかさせないよ」
昏く重苦しいオーラが彼の周りを包んでいるように感じる。すり、と頬に指を滑らせてきた。
また強引に口を塞いでくるんだろうか……流石に耐えられない。――嘘みたいだけど、夢ではない。輪郭はぼやけず、はっきりとした意識がある。
「今、目の前にいる君はどんなエルゼなの。聞かせて」
「わたくし、エルローゼリア・スノーシャインは十七歳でした。多分精神だけがここに転移したんだと思います。さっきまで、馬鹿王子と腹黒毒華のせいでパーティで悪に仕立て上げられてて酷い目に! 魔女の森に連行される寸前でした。暗転と眩い白い光に包まれた後、いつの間にかここに来ていたんです」
渋々納得している様子。
「ふぅん。確かに。初々しくて、反応も違っていたしね。初対面なのに警戒もなく僕に襲われちゃうなんて、無防備過ぎて心配。もしかして、聞こえないと思った? 脈も心臓も呼吸も早くて、愛に慣れない初心な感じ…………かわいくて、かわいくて――無性に愛でたくて仕方なかった」
色づいた唇を指で撫でられ唾液を拭われた。そして彼はその指を見せつけるように舐める。
かあっーと顔が熱くなる。
「沼のようにどこまでも深くなる愛欲にのまれて、理性を留められず衝動に駆られたままキスをしちゃった。まだ、物足りなさはあるけど我慢したほうだね。これでも、加減してるけど?」
「加減って、どこがっ!!!」
「啄むようなバードキスだけで満足する訳がないでしょう。そんな軽いキスじゃ、ぜーんぜん足りないんだけど? ましてや僕らは夫婦だ。毎日毎時毎秒、愛おしい妻を愛でて蕩かして甘やかしたいのに」
「うぅっ……」
ぼふんと蒸発しそうな言葉を平然と言うな……! 穴があったら入り込んで出たくない……。
(参りました! 貴方様には敵いません!)
完全敗北。心で白旗を揚げた。
「フフ、林檎よりも紅い顔……熱っぽくて火照ってるね。エルゼ、続きを期待してるの……? お望みなら、キスより先の甘いことを教えてあげるけど、知りたい?」
またも寿命縮みそうな程、糖度の高いことを言われる。え、え……キスより先って何?! 甘美な誘惑や未知への好奇心より、遥かに上回る恥ずかしさ。転げ回りたい。
「――――まぁ、再び愛に溺れさせて依存させるだけだ。僕の心を乱せるエルゼ……君の生きる時間を丸ごと僕が独り占めしたいくらい愛してる。とっくに君は僕だけのものだし、好きにして構わないよね」
動揺と困惑で頭が追いつかない。もやもやする。この間を十秒は要した。だから、ぽつりと微かに溢れた彼の呟きは聞き取れなかった。――昏く不穏な笑みにも気づけないままで。
「?」
「…………ううん、なんでもないよ。さっきの続きを聞かせて」
「貴方のことについては、全く心当たりがないです。知らなくてわからないことだらけで……やっぱり受け入れ難くて……」
「なるほど。さっきのは誘ってたんじゃなく、出逢ったばかりで本当にわからなかったんだ」
ぽんと腑に落ちたように、彼は納得だと頷いた。
「許すまじ、アリッサーナとルシフォ……」
憎しみを口にしようとしたら、彼の指がわたくしの唇に当てられた。
「言わせないよ……思い出したくもない……忌々しい毒華と、気に障る雑草の名前なんて、ね……? 彼奴のことは、嫌いだ」
後半になるにつれて、棘のある言葉に変わっていく。声には怒りや嫉妬が滲んでいる。
「?」
一瞬にして彼の空気が切り替わる。吹雪の凍土に丸裸で放り出された心地がした。それはもう、大変不穏な様子だ。笑顔で巧妙に隠してはいるが、大層ご立腹ではないか。明らかに機嫌が悪い。おとぎ話の悪役のほうが慈悲を与えてくれそうだなぁ。最終的に主人公を連れ去るラスボスかよ。強敵過ぎないか? 一の為に万を皆殺すって……目が、怖い、怖い……!
「もし他の男の名前をその喉笛から奏でようものなら……僕はわからずやの君にお仕置きをするからね?」
「えぇ?? お仕置き……って何。え」
「フフ……優しく穢れのない美しいエルゼ。今の君には絶対にわからないよね、僕が何千何万倍……どのくらい君を愛しているのかを」
そのお仕置きの意味は全くわからないが、この時わたくしが思ったものとはまるで別物なのは確かである。
「舌、切るけど……それでもいい? 喉を切らないだけ、いいよね。――塵芥は既に処分済み。もう復讐できなくて残念だよ」
自分は軽く見ていた。そんな易しいものではない。予想を遥かに悪い意味で裏切った残酷な言葉だった。
一見、聖人のように真っ白と言われても信じるのに……内心は悪魔のように真っ黒じゃないか。
昏く光を失った瞳に、躰は本能で竦んだ。笑顔で他愛ないことのように言ってのけるヴィルシアント。理解、したくない。狂っている。言葉にされず裏に隠されたままであれば、一生わからないことだった。そうだとすれば、恐怖に息が止まりそうになる。からかっている、冗談なんて考えはすぐに吹き飛んだ。血の気が引いて、途端に青褪める。
「顔色悪いよ。どうして肌がこんなに冷たくなっているの……?」
彼は、異常なのだと、今になって気づいた。今になるまで気づかない自分は鈍いのだろうか? 愛が重い、それだけなら許容していた。だが、アリッサーナや"あの子"級に、面倒かつ厄介な種類の毒性があるなんて……。
病的な程に過剰な束縛や執着。良心の一部が欠けており、壊れた愛で躊躇いなく首を締めていく"ヤンデレ"。これは逃げ出そうものなら、何をされるか………! 怖い、怖い……!!!
わたくしには血の繋がりがない妹がいた。"あの子"は花の妖精と見紛う、可憐でとてもかわいらしい妹。そんな妹も同じくヤンデレという精神障害にかかっていた。わたくしには妹しかいなかったから、少々過保護だったというのもある。妹は……わたくしの頬を叩いたウインガルムの令息に消えない傷を負わせた。彼女が九歳のときだ。
『大好きなお姉様で、かけがえのない家族ですもの。このくらい当然の報い。天による制裁なんて、生憎と信じておりませんから、私がその役目を果たしたまでのこと。これは正義の鉄槌という名の粛正でございます』
普段の鈴の鳴るような声からは、嘘みたいに温度が消えていた。
『私にはお姉様以外いない。お姉様は慈愛に溢れてお優しいから、受けさせた罰はまだまだ軽いほうなのですよ。砂になるまで刻んで焼却して、一族郎党根絶やしにしないだけマシでしょう? 私のたった一人のお姉様に傷をつけるなんて重罪、処刑より重い罰が思いつかない。でも、お姉様が泣くのは嫌だから……我慢したの。堪えた私を褒めて……?』
無邪気な笑顔が、ひたすらに恐ろしかった。なんで、笑えるの……。変よ……!
それから間もなくのことだった。あの凄惨な事件が起きたのは。
妹はあるときを境に突然命を落とした。
――なんの前触れもなく現れたローブで完全に姿を隠した者によって。
妹は奴により無惨に殺されたのだ。既に手遅れで…………駆けつけて抱いた妹は凍てついて血まみれだった。わたくしが狙らわれ襲われた際に庇って………………!
犯人はそのまま逃亡し、野放しのまま正体もわからない。なんてもどかしいのだろう…………。
無念を晴らせない憎悪と悲しみ。胸の内から込み上げる負の感情を、一体何処へぶつけたらいいの?
妹の命を目の前で奪ったこの者こそが、運命の刺客であり、わたくしを死に至らしめる黒幕だと踏んでいる。なぜなら奴は妹への死と意味深なメモを、置き土産に残して去ったのだから。
『お前はやはり光の加護の所持者だったか。これでわかったろう。その力の価値と代償が』
くしゃりと握り潰したい気持ちを抑える。
『どんなに刃向かおうと、決して我が正体には辿り着けない。呪いに足掻く貴様の首ごと、いずれこの手で……』
このときは顔が蒼白どころか、紙のようにぐしゃぐしゃになっていたと思う。
『いや、手にかけずとも。宿命からは逃れられない。檻の中の雛鳥、感情で復讐できるなどと――短絡的で詰めの甘い思考は無駄だ。こうなったのも、全ては貴様の罪だ』
わかったような口ぶりで語りかけるのは、無機質な文字なのに。そこには犯人の呪詛のような怨念が、敷き詰められている気がしてならない。
『最後に一つだけ言っておこう。我が目的のための糸は、既に張り巡らせてある――驕り侮りに身を滅ぼせ、呪われた女神の加護を受けし者よ』
――わたくしを庇ったばかりに。わたくしのせい。
――女神よ、光の加護よ、何故死の標的を家族にまで向けるのですか。
――妹を何故こんなにも早く天へと連れて行くの……!!!
――わたくしなんか、聖女失格よ。何が、聖女なの…………誰一人、救えていないじゃないか……。
――肩書きばかり立派なのに……自分は無力だわ。
葬儀には、かって頬を打ってきたウインガルムの令息も参列した。遺影を見つめて彼は呟く――
「この傷が最期の繋がりだったなんてな…………。一生、面影を感じながら、生きなきゃならないのか」
彼は涙を流して――
「心にも傷を遺したまま、急にお別れだなんて……うぅ、うっ……」
忘れられないトラウマだった。それは彼も同じく。彼はずっと過去を悔やみ……今も心を閉ざしている……。
まさか――目の前にいるわたくしの未来の旦那様も……手を平気で血に染めているかと思うと…………とても正気ではいられない。妹のことを彷彿とさせる……。
「僕の定位置に置いておかないと安心できない。離れたら充電不足で空っぽになっちゃう。君に首を横に振られたら、僕は耐えられなくなって――躾用の毒入り首輪をつけて飼い殺すよ? エルゼは僕に愛されるだけでいいんだよ。……例え心が壊れていたとしても。永遠に僕と二人で一緒にいてよ」
早々に心折られて抉られた。面倒事は避けたいので、遠慮したいが……飼い殺しは嫌。なので黙って従い、言う事を聞くことにした。わたくしが逆らえる訳がない。
「こんなことを言われて、やっぱり怖いかな? 繊細で綺麗な君の心が傷付いた表情――もっと見ていたい。心臓を止めて二人だけの世界に飾っておきたい」
言葉を除けば、彼は誰もが一目惚れする優しく穏やかな表情だ。内容は限りなく物騒だが。
「……!?」
急に耳を、喰まれた。
顔は紅潮して、下がっていた熱はどんどん上昇する。彼が静かに纏わす冷気は恐ろしいくらい心を冷やしていくのに。凍結したように、身が動かない。
「僕はね君から向けられた感情全てを、狂おしいほど欲しているんだ。僕の全ては永遠に君のもの。君もまた同じく僕のもの。誓約を契ってからは運命共同体で、一蓮托生になった。渇いた心を君への愛で潤して、君からの温もりに満たされたい。君が傷つけば僕が癒やしたいし、僕だけが君の心を独占したい。僕にしか頼れなくしたい。僕達以外の森羅万象・有象無象など不要でしょう? 君の瞳に写したくないなぁ……」
目元をそっと撫であげるのは、指輪の収まる薬指の腹。
「僕が代わりに出来ることなら何でもやってあげる。君が触れた空気や躰を構成するものにも嫉妬するし、僕って君のことになるととことん他が見えなくなるんだ。霞がかったように、世界が全て君だけで塗り潰される。君からすると面倒な夫だよね?」
甘えるような声が、こそばゆく耳に吐息をかける。
「僕はね、君の為に命を捧げると決めたあの日から、迷いなく死ねるし殺せるよ……未練や憂いは君しか浮かばない。そのくらい愛してるんだ。エルゼ以外見えないし、欲しくもない。エルゼがいるだけで、僕は幸せだよ――――だから、この想いを疑わないでね?」
わたくしは、妖艶な瞳と恐ろしく昏い微笑にいとも容易く怯み従うのだった。
その後強制的に姫抱きにされてどこかの部屋に連れ込まれた。
降ろされた先は広く弾力があり、体重を乗せたことできしんだ。今わたくしがいるのは、寝室の寝台の上。月明かりが窓から注いでいる。
彼はわたくしを遠慮なく押し倒した。スプリングの音、シーツの擦れる音が密室で響く。理解不能な状況だが、これはその……追い詰められてる……? 顔が熱い。冷めない熱に心音が加速する。
「精神が十七歳かぁ……なんだか新鮮な経験だよね。背徳感はないのに、とても高揚する。今すぐエルゼを愛に沈めたくて堪らない。さあ、まずはどうやってエルゼを愛してあげようかな? これでも焦らされたほうだ――君の躰に初めての感覚、鮮明に刻み込んであげる」
異常と知ってもなお、激毒に犯されて麻痺したように……思考が正常に働かなかった。拒絶反応を示す頭に対し、躰は期待して熱を上げるばかり。
「愛しい君が欲しているものを与えてあげようか?」
彼はわたくしをうっとりと見つめて静かに微笑んだ。こちらの心情を見抜いているような、落ち着かない笑み……。けれど真っ直ぐな目だ。濁りなく透き通るマゼンタが光っている。
この人に愛情を注がれるのも悪くないかもしれない。でもわたくしを見初めて夫婦になるなんて、意外過ぎて驚いたけれど。彼と自分とでは釣り合わないような気がする。
一つ言えるのは、産まれる子もきっと美形だろうなってことで――はっ……?! あれ、今……何を考えていた!? 流されるまま思考が引っ張られたのかしら……!
「君の隠し事は大体予想できる。そうだね、おおかた……どうしてこんな自分を妻にしたのか経緯や馴れ初めを知りたい、あと子供がいたらとか妄想していたんじゃない?」
言い当てられて図星だった。
「結婚まで至った理由については、語ると長いから省く」
色々と問いただしたいし気になるけど、後者の疑問をすっきりさせたい。しっかりと聞いておこう……
「子供に関してはそうだ――確かに、君と僕の子は類稀なる美貌や光と闇の血を受け継ぐだろう。子がすぐに欲しいというなら、僕は喜んで承諾する。もちろん強制はしないから安心して。――だけど、今君が恐れているのもわかる。濃すぎる魔力は身を滅ぼすのではないか、とね。大丈夫、独りで思い詰める必要はない。僕ら家族の未来については、じっくり考えるといいよ。いつでも相談に乗るから、気負うことはないさ」
彼は愛の理想を具現化した夫なのか。なんて優しくて、一途に純粋に愛してくれる人なのだろう。つくづく思考が読めない人だけど……感じた強い想いは、疑いようがないじゃないか。
でも――
「どうしてそこまで……」
「夫が妻を支えるのは当たり前でしょう。愛しい君が独りで悩んで、困って、泣いて、悲しむ姿を見るのは辛いから。宝物に不要な傷を付けたくないのも、君のためさ」
「……!」
「――待たせたかな。今から十二分に愛でられてよ」
◆ ◆ ◆
突然次々に明らかにされた衝撃的事実や嘘みたいな出来事の連続で、既にわたくしの精神はかなり消耗し、躰も酷く疲弊していた。
重い愛情に揺さぶられるあの瞬間は、幸福の絶頂で疲れを忘れることができた。精神が転移する直前に向けられていた……あの冷え切った氷の瞳。その鋭さに傷めていた心や、容量に限界を迎えていた頭にもようやく休息が訪れた。独りで抱えて悩み苦しんで、無理を通し続けた心も少しずつ穏やかになっていく。胸のつかえがやっととれた気がする。
「いい子にはご褒美をあげないとね」
そっと額に落とされた柔らかな感触。唇は湿りと熱気を帯びていた。
彼から伝わる体温に安心して、ほっとした自分がいる。重なる心臓の鼓動と熱の多幸感に落ち着く。
とらわれて堕ちていく愛の快楽を知ってしまえば――わたくしはもう、貴方のもとから離れられない。
一緒に横たわり密着したまま、彼に背から強く抱き込まれる。
「忘れないで。君は髪から爪先、心臓に至るまで全てが僕だけのもの。例えどんな道を辿ったとしても、運命は僕らを引き寄せて導く。エルゼにとって僕は未来だ……君の心が追いつき、僕を見てくれる瞬間をずっと待ってる」
彼から究極に甘い告白をされ、わたくしは羞恥に身悶えて気絶してしまった。意識を失って以降は、彼がどこまでも遠くなっていく気配がした。
「君はいつであれ、あっさりと僕の手に堕ちる……。悪い人に騙されないか、いつも過保護に見守ってあげたくなるんだ。君がいなければ、生きることすらもできない狭量な僕をゆるして」
混濁する朧気な意識の境で、彼はなんと言ったのだろうか?
錯覚でも夢幻でもない"未来"で過ごした時間が、記憶に染みつき頭から離れていかない。
――わたくしは知らなかった。この不可思議な体験が己の結末を大きく変える分岐点であったことを。
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