第1話 妻の墓前にて

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第1話 妻の墓前にて

妻の墓前へ花を手向(たむ)ける。 その場に腰を降ろし両手を合わせて目を閉じると、妻との思い出が蘇ってくる。 初めてのデートの待ち合わせ。 情けないことに、俺は寝坊をしてニ時間以上も遅れてしまった。息を切らせて待ち合わせ場所に着いた俺を、心配そうに、でも安心した顔で迎えてくれた彼女。怒って帰るわけでもなく、遅れたことを問い詰めるのでもなく、優しく微笑む顔に俺の心は決まった。 残念ながら子供を授かることはできなかったので、家に子犬を迎え入れた。 二人で我が子のように可愛がり、逝った日には手を取り合って泣いた。 怒らせたこともあった。 喜んでくれたこともあった。 辛いことも楽しいことも二人で一緒だった。 思い出とは、なんて切ないものなんだろう。 悔やんでいることを詫びる相手はいない。 楽しかったことをまた一緒に過ごす相手はいない。 繰り返すことのできない時間に、俺一人だけが取り残される。 そんな思い出に圧し潰されそうになる。 こんな思い出など、いっそ無くなってしまえばもっと楽になれるのかもしれない。 熱くなった目頭を指で押さえながら立ち上がった俺に、その男が話しかけてきた。 「ずいぶんとお辛そうですね」 黒いコートのフードを目深(まぶか)に被り、生気のない土色の顔にギョロリとした奥目。身長はそれほど高くないため、上目遣いで探るようにこちらを見てくる。 「墓前で辛そうなのは当たり前ですね、大変失礼いたしました」 何も言わない俺に対して、男は自嘲気味に少しだけ口元を緩め、軽く頭を下げた。 どこの誰かは知らないが、この男もこの寺にある墓の縁故かもしれない。黒い服装は、喪に服しているつもりなのだろうか。もしそうだとしたら、亡くなった妻との思い出に苦しむ気持に共感してもらえるような気がして、俺はつい本音を口にした。 「ここへ来るたび、いえ、ここへ来なくても妻と過ごした時間を思い出してしまい、良い思い出も悪い思い出も、私を圧し潰しそうになるんです」 「そうですか、そうですか。それでしたら、わたくしが貴方の苦しみを消し去ってあげましょうか?」 男は大きく頷きながら、しかし変なことを言い出した。 「え? 苦しみを消し去る...とは?」 「わたくしが、貴方を苦しめている奥様との思い出を消して差し上げるのです」 『思い出を消す』とはどういう意味だ? 墓の前で宗教の勧誘か? それとも何か違う意味があるのか? すると、無言のままの俺に男は微笑みながら言った。 「実は、わたくしは死神なのです」
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