第1章 水の領主ステファウヌス

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第1章 水の領主ステファウヌス

 満月は魔法使いの夜。  石の塔から街を見下ろすとあちらこちらで魔術を使う光が見えた。蛍よりももっと淡く。魔力の強弱はあっても各々が研鑽しようとする意欲がその光の色を変えているように見える。黄色く、青く、赤く、碧に。  魔術は満月の夜に最も強い力を生み出す。  僕の母。彼女は水令の領主で、この水の公国を統べる魔法使いだった。その強大な魔力で造り出した膨大な水で国土をあまねく潤し、人々に絶えることの無い豊かな恵みを惜しげなく分け与えた。  領民からの信頼は絶大で、母がこの国を統治する限り人々の平和と安寧は約束されたようなものだった。  だが。  彼女は死の間際、まだ幼い僕を呼んで震える手の平、血の気の引いた細い腕でこの身に触れた。僕の魔力を封じるために。母から受け継いでいた僕の中の魔力の泉は、母の手によってその源を塞がれた。何のために。この事実は伏せられた。知っているのは臨席していた父だけだった。  そのまま母は昏睡状態に陥った。侍従に手を引かれて自室に戻って、これまで使えた魔術が使えなくなっていることを改めて知った。  寝る前の温かい紅茶。冷えた手を温めるための盥一杯のお湯。髪を整えるための数滴の水。普段何気なく魔術で作り出していた水をまったく呼び出せなくなっていた。  母は翌日、亡くなった。父はひどく悲しんで三日三晩は食事も摂らず、十日ほど自室に籠って出てきた時は十歳以上も老け込んだように見えた。  あれから十数年経って、僕は母の後を継いでこの国の領主となったけれど、魔術を使えないことは領民にも周知の事実だ。  全く使えないわけではない。母の封印の魔法は強力だったけれど、その母の魔力を受け継いだ僕の魔力は、時と共に少しずつ、外に零れだした。  でも、ほんの少し。ティーポット一杯分のお湯を呼び出したり、洗濯物が早く乾くように水を蒸発させてしまったり。  便利よ、と城に務める女中たちは言ってくれる。 「大鍋にお湯を沸かすのにどれだけ苦労する事でしょう! 水令の領主様なら詠唱を唱えるほんの数秒で大鍋一杯のお湯を沸かしてくれるのだから!」 「雨の続く日でも洗濯物を洗えるなんて大助かりだわ! 詠唱を唱える間に水がどこかに飛んでいくなんて!」  そんな彼女たちの日々の感謝で毎日を過ごしているようなもので、時々街に出たらその時は、水道工事の手伝いをしたりする。 「領主様、しばらく水の流れを止めて下さい!」  領主というより街の便利屋。領地も見て回って水路をつくる手助けを。ここ数年は母の封印の隙間からそのぐらいの魔力は流れ出るようになっていた。    そして父は。父はもう寝床から起き上がれないほど衰弱していて、話しかけても返事のない状態が長く続いていた。母を深く愛していた父は、その喪失に体よりも心の方が耐えられなかったのだ。 「詠唱、腐食する酸、融解させる塩」  水の魔術を発動する前に僕が唱える呪文、詠唱。正確に言えばこれは詠唱ではない。実を言うと詠唱は無くても魔術を発動できる。けれど僕の水の魔術は科学の力を借りるから、そのロジックを組み立てる時間稼ぎに作り出した見せかけの詠唱。  魔力を封じられていたから。  魔術で出来ることが限られていたから。    魔術が支配するこの世界で科学は異端扱いされる。けれど魔力が弱くても、魔術を使えなくても、水を操ることのできる科学の術に、僕は魅了されていた。  塔から見下ろす夜の街は群青色。満月の光が白く家屋の屋根を照らしているけれど、闇はより深く夜に沈む。  またどこかの町角で魔術を使った気配。  魔術が使われた気配は、使った者より大きな力を持つ者にしか感知できない。強大な魔力を持った先代の水令の領主は自分の領地のあちこちに光る魔術の痕跡を全て網羅できたけれど、微細な魔力しかもたない者は、近くで他の魔法使いが魔術を使っても気づくことができない。  では僕は。    塔から見下ろす夜の街は先ほどから星の数ほどの小さな煌めき。  母の魔術に一時(いっとき)封じられているだけの僕の魔力は、母と同様、この国のすべての魔術を感知できる。  感知できるけど魔術を使えないから契約違反の魔法使いを取り締まることもできない。中途半端な能力。母はなぜ、僕の魔力を封じたのだろう。  それでも懸命に瞬く数多の光、魔法使いの研鑽の証を見ていると、僕も何か魔術を使いたくなる。この国のどんな魔法使いも僕の魔術を検知することができないから、何をしても気づかれないのだけど。  何をしてみようかな。  窓にいったん背を向けて、塔の中、自分の部屋の真ん中で足を止めて考える。  満月の光が明るいから、すこし雨を降らせれば夜空に虹が架かるんじゃないか。それはすごく良い思いつきだった。早速窓辺に向かおうと振り向いて、そこに何かがいることに気がついた。  鳥? 大きな鳥が窓辺に止まっている。さっきまでいなかったのに。  目を凝らさなくても夜に慣れた桿体で、その鳥が大きな嘴、鋭い爪をもった(わし)であることが見て取れた。    自然の作り出した造形美。思わずその姿を見つめて、時折煌めく瞳にその鷲が生きている証が見出せた。  なぜこんなところに鷲が。  けれどそれほど疑問にも思わなかったのは時々城の上空をこのような大きな鳥が飛んでいる姿を見たことがあったから。  去年生まれの若鳥が満月の夜の明るさに塒から飛び出してしまったのだろうか。  近づいて、けれど逃げる気配がない。  夜風に羽毛が揺れて、鳥の体の柔らかさ、温かさを思う。  一歩、また一歩とゆっくりと近づいて、あと二、三歩近づけば手が届く。  そこで足が止まる。  月光に照らされた鷲の、その羽の色は見事な赤銅色。首回りの柔らかな羽毛も、翼に生える頑強な風切羽も、真っすぐに伸びる尾羽も。光沢を孕んだ豊かな羽色は、この鳥が若鳥ではなく、十分に成熟した成体であることを示していた。  ではなぜこんな場所に。疑問に応えるかのように、あるいは疑問を全く無視するかのように、赤銅色の鷲が首を少し傾げた。  ()れてみないか。  そんな囁きが聞こえたような。そしてその囁きに導かれるように、手を伸ばす。あと少し、あとちょっとでその素晴らしい赤銅色の羽毛に指が触れる。その瞬間、  鷲は大きく翼を羽ばたかせた。  強風が巻き起こり、部屋の中を風が暴れまわる。  鷲の体から赤銅色の羽毛が次々に抜け落ちて視界を、部屋を埋めていく。強い空気の流れに、風を作り出す羽毛の大群に、息を吐く余裕もなく、水の魔法を使う間もなく、体中が赤銅色の羽毛に覆われ、包まれ、そして僕は意識を失った。  目が覚めたのは次の日の朝だった。荒れ狂う風に荒らされたはずの室内はいつもどおりに片付いている。本一冊、床に落ちた形跡もない。窓にかかるカーテンも、自分が寝ていた寝床にも、いつもと変わったところは何もなかった。けれど。  いつもは必ず閉めて寝る窓が開け放されたままだった。寝床から立って窓辺に立つ。そこに何かがいた形跡は何もなかった。それは重大な問題だった。  自分よりも強大な魔力を使った者がいる。    この国の誰より強大な魔力の泉を持つはずの僕が、昨夜の出来事を魔術だと看破することができなかった。そんな魔術を使えるものは、そんな強大な魔力を持つ者は、この国にはいない。  赤銅の鷲。    昨夜の出来事にどう対処すべきか、答えは簡単には出そうになかった。
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