第2章 黒髪の剣士

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 水の公国の中心から遠くて、土の公国に近いこの辺りは、多様な人間が行き交う。  だから争い事もたまには起きる、と宿の主人に聞いてはいた。  僕たちが座る大きなテーブルは食堂の奥にあって、何か騒ぎが起きたところは視野の死角になるから様子が分からない。 「ちょっと見てくる」  ラジルが席を立った。  巡検師団の皆はとりあえず食べかけだった食べ物を呑み込み、フォークやグラスを置いてラジルを待った。  直ぐにラジルは戻ってきて、僕に状況を報告した。 「どうやら隣り合ったテーブルの、ちょっと風体の良くないグループ同士で小競り合いが始まったらしい」  どうしようか。  ラジルは言葉に出さずに目線だけで僕に聞いていた。  僕は自分の皿の上、食べかけの料理に目を落とす。 ……あったかい内に食べたい。  介入する必要はないから様子を見よう、そう言いかけて、厨房の奥から宿の主人がやってくるのが見えた。 「まずはあの宿の主人に任せてみよう」  僕がそう小声で皆に伝えて間をおかず、宿の主人が荒くれ者に肩を強く押されて食堂の床に尻もちをついた。  ガチャン、ガタン、ドタンバタン!  宿の主人の小太りの体から突き出た足が跳ね上がって他のテーブルにぶつかり、そっちのテーブルも食器ごとひっくり返った。  もうこうなれば収拾がつかないのは目に見えている。  数にあかせて巡検師団で抑えにかかってもいいけれど、……腕力では僕は数に入らなくて、情けないけど少々分が悪いのは目に見えていた。 ――兄様は、ほんとうに力仕事ができないんだから!  マーリンの声と顔がここにいるようにはっきり浮かぶ。    仕方ない。  僕は動き出そうとする巡検師団の皆を手振りで抑えた。ラジルはもちろん、皆は僕の意思を察してその場に留まる。  僕は一歩前に踏み出した。背筋を伸ばして息を吸い込む。 「詠唱、腐食する酸、融解させる塩。全てを飲みこむ水」  周囲の空気の成分が速やかに変化する。  僕が手のひらを上に向けると、食堂の天井付近、ふよふよと空中を漂う水のかたまりが出現した。    水のかたまりの下には騒ぎの中心。  僕は手のひらを下に反す。    水は僕の魔術と重力に従って、一気に床へと落ちてきた。  大乱闘が始まる一歩手前の食堂の中、充分な量の水を頭上から一気に浴びせられてずぶ濡れになった荒くれ者たち。何が起きたのか、分かっていないようだった。  店を水浸しにされた宿屋の主人も。  ごめん、食堂の中はあとでちゃんと乾かすから。  荒くれ者達の気勢が削がれたその隙に、巡検師団が彼らの周りを取り囲む。  こういうのは気合だから。役人然とした雰囲気を出しながら、ラジルが命令を出す。 「一人ずつ、名と出身地を明らかに伝えるように」  さらに強面の巡検師団の数名が、今日はもう部屋に戻って休むよう強い口調で言い聞かせると、彼らはとりあえず指示に従い食堂から去ってくれた。   呆気に取られている風情の周りの他の人達。そうだろうな。 「どうぞお食事を続けてください」  そんな人達に声を掛けて回ってくれたのはラジルで、人々への対応は彼に任せて僕は後片付け。  なるべく巻き添えを出さなかったつもりだったのに、思ったより周囲が水浸しだった。力を調節するために詠唱の時間を取ったのだけど。けれど。  ……もしかして、魔力が強くなっている? 「詠唱、腐食する酸、融解させる塩。大気に帰る水」  水を空気に戻す魔術。だけどまた力の調整に失敗した。  びしょ濡れの床が乾いたのはいいけれど、食堂の中の湿度が一気に上がる。  しばらく窓とドアをひらいておけば大丈夫だろうけれど、なんだってこんなに調整が効かないんだろう?  疑問と焦りをごまかしながらバタバタと食堂の窓を開けて回る僕の後ろから、ふいに声が掛けられた。 「すまない、こっちの水も消してくれないか」 「あ、今すぐに――」  この国の領主としてこの返事は如何なものかと思いながら、ふり返ってその声の主と顔を合わせた。  黒っぽい衣服。黒褐色の髪。僕より少し年上で高めの背丈。鍛えられている腕。背後の椅子に立てかけられた大振りの剣。  そして彼の服の裾に光るもの。  僕が魔術で現出させた水が凍って、キラキラと輝いているのが見えた。
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