第2章 黒髪の剣士

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 椅子から立ち上がった男はおどけた仕草で自分の服をつまみながら僕に近づいた。使い古されているけれど履きやすそうな革の長靴を履いているのが見える。徒歩で旅をしているのだろうか。    その衣服の裾に光る氷の粒。  僕は戸惑った。僕が現出させた水が凍った?  母の封印の魔術が施されたままの僕は、凍結の魔術を使うことができないのに。  さっきから不安定な僕の魔術のせいだろうか。 「凍っていると消すことができないかな」  首を傾げる僕の頭上から、どこかからかうような声音が降ってきた。  ちょっとむっとして軽く相手を振り仰ぐ。濃い褐色の瞳の中、赤い光が煌めいて直ぐに消えた。  赤銅色の羽の色。 「でも溶ければ大丈夫だろう、ほら」  また思考が横に反れそうになった僕の目の前、男の指が衣服の裾をもう一度指し示した。  確かに、窓を開け放ったとはいえ、低くはない室温に氷はもう融けかけて、床に小さな水たまりを作り始めていた。  僕はそれを一瞥しただけ、詠唱無しで水を大気の中へと還した。 「もう乾いたと思うけど。自分で魔法を使えないのか」  さっきのむっとした気分が抜けないまま、そんな僕の気分は声に出てしまった。 「ちょっとだけなら」  なのに相手は全然気にも留めずに目元に笑みを滲ませながら、指先でちょっとだけ、を示してくる。なんだか僕を子ども扱いしているみたいだ。 「それより、どうやら君は見かけによらず偉い人間みたいだな。そこにいる者達は君の部下だろう」  見かけによらず、ってなんだ。見たまんま、僕はこの国の領主だ。偉い人間みたい、って思うんだったら相応の態度を取るべきじゃないのか。という言葉はのみ込んで。 「……うん、まあ」  僕の返事は無駄に曖昧になった。  自分のペースが乱されて、いらいらが腹の中に溜まっていく感じ。  様子に気づいたらしいラジルが、僕の肩をぽん、と叩いて、会話を代わってくれた。持つべきものは親友だ。 「そういうそちらは何者だ。旅の者にしては少々物騒なものを持っているようだが」 「ああ、これは、まあ商売道具、かな」  男は軽々と大ぶりな剣を持ち上げた。鞘に入ったままだから、見かけよりずっと重いはずだ。  ……見かけによらず。  さっき男に言われたその言葉を思い出して、僕はまた腹が立ってきた。なのに。 「へえ、じゃあ剣士か。今、どこかに仕えているのか」  ラジルの声が明るくなったのが分かる。すごく嫌な予感。  剣を持った男がわざとらしく顔をしかめた。 「それが無職なんだ。君たち、俺を雇ってくれそうな就職口を知らないか?」  ラジルがこちらを振り返った。 「ステファン、どうだろう、ちょうどいいじゃないか!」  ……僕の親友ラジル、どうしてこう短時間で僕のことを裏切るんだ!  僕はこの水の公国の人事権の一切を決定できる権力をもっている。領主だし。いくら職能的に理想的な人間だからって、人柄や性格は重要だ。    一方で、頭のどこかで僕は冷静に考える。  理想的。そう、理想的ではあったのだけど、あんまり理想的過ぎて、なんだろう、逆に反発する気持ち。  でき過ぎた話のような。  用心深く相手を観察する僕の頭に、黒髪の男がポン、と手の平を載せた。 「俺の名前はヴィーラント。ヴィランと呼ばれることが多い。どうだろう、ええっと、ステファン。人手が足りないんだろう? 俺を雇ってもらえないかな」
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