第1章 水の領主ステファウヌス

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 ラジルが帰った後、僕は寝る前にもう一度執務室に向かった。  部屋の灯りは付けずに手に持っていた洋灯を机の上に置く。厚いカーテンが下ろされた夜の執務室は、まるで深い洞窟の中にいるようだ。  僕はそんな雰囲気が好きだから、深夜に一人、執務室にこもって仕事をするのは苦ではない。  ・・・・・・だいたい翌朝起きれなくて、マーリンに暴力的な起こされ方をするんだけど。  あまり遅くならないようにと自分に言い聞かせながら、明日、ラジルと話し合う巡検の内容を確認する。  話し合う、とはいっても、領主は僕。  僕が決めたことに無理はないか、道理は通っているか、この国の決まり、王の決まりごとに逆らうことは無いか、見逃していることはないか、ラジルにいっしょに確かめてもらう。  こんなことを頼めるほどに、ラジルは法律にもいろんなことにも詳しい。 ・・・・・・もちろん領主である僕だってちゃんと法律はわかっているけど、万が一ってこともあるし。  この国の地図を広げてみた。巡検の道程は決められているから、これについては問題ない。  それより巡検のついでに通りがかる村々の水道工事をしていくことになるんだろうな。  工事の記録を引っ張り出して、ここ最近、大規模な改修をしていない地域を拾い出しながら地図を確認してみると、けっこう大変そうだった。資材は現地で調達するとして。  水道工事の計画は現実逃避だと自覚している。  王の命令によれば、僕の仕事は巡検の記録を書いて、違法な魔術師とやらがいればそれを捕まえることだ。  やることはそれだけだから心構えなんていらない遠足みたいなもの。  そう思ってずっと胸の内にあった疑問を窓の外の夜空に問い掛けた。  違法な魔術を使うにはそれなりに大きな魔力が必要だ。この水の公国には母の代からずっと、そんな大きな魔力を持った魔術師はいないことを王は知っている筈なのに。  ……あの夜の赤銅の鷲を除いて。  あの鷲を使役した魔術師を探せということなのだろうか?  だけど僕はあの出来事を誰にも話していない。  あの夜以降、何度となくその気配を探してみたけれど、二度と鷲は現れなかったし、魔術の気配もなかった。ただこれは、  深く沈んでいく思考の手前、執務室の扉がノックされた。 「兄様」 「マーリン、まだ起きていたのか。もう寝なよ。あ、ラジルのことかな、連れていくことになったけど」  途中で僕の言葉は遮られた。 「お父様が兄様をお呼びなの」  わかった、とそれだけ応えて僕は机の灯りを手に取った。  窓が北側にしかない父の部屋。一日おきに見舞いに訪れるその部屋に、慣れた足取りで足を踏み入れる。  いつもはベッドに寝たきりの父が、付き添いの者に背を支えられて上半身を起こしていた。その姿はひどく珍しい。 「父上、お呼びでしたか」  近づいて声を掛ける。けれど父の目はぼんやりと見開かれたまま、僕は力なく垂れる父の手を握った。 「父上、ステファンです。王の命を受け、明後日から巡検に出ます。しばらくお会いできいませんがどうぞご心配なさらぬよう」  父の頬がぴくりと動くのが見えた。僕の言葉の何が父の耳に届いたのだろう。 「……ステファン、これを」  それだけ云って、父は僕に握られた手を離し、震えるその手で枕の下から何かを取り出すと、それを僕に手渡した。  掌に乗る硬い物。父の目に光が宿る。  母の死後、消え失せて二度と戻ることがないと思われたあの光。 「あのひとから、お前の母から預かっていた。これをお前に渡すようにと」  僕の手の上から父は手を重ね、かたくそれを握らせた。温かな手。そして。  急速に、父の目からは光が失われた。  力が抜けて横に倒れる身体に手を伸ばし、ゆっくりと寝台に横たえる。起き上がっていることもできないいつも通りの父の姿が、僕の目の前にあった。  それ以上何か話すどころか、どのような刺激にも反応しなくなった父の体に掛布を掛けて、部屋を出た。  世話をする役目の者が入れ替わりに部屋に入る。僕は一人、執務室に戻った。父から渡された物。母の形見。  明かりにかざしてみる。  楕円形の小さな箱。全体は象牙色で金と水色のレリーフが植物の文様を形作っている。  底にネジがついているのを見ると、これはオルゴールのようだった。けれど、蓋が開かない。  壊れているから、ではない。  蓋は魔術で封印されていた。  母が僕に掛けたのと同じ、強力な封印の魔術。 「いったいどうして、今これを僕に」  目の前に持ち上げてみると微かに音がした。中に何か入っているのか。    蓋の開かないオルゴール。意図が不明な巡検の命令。……赤銅の鷲。  何かが夜の闇の中に蠢き始める予感に僕の胸の内は騒めいて、寝台に横になっても寝付けないまま夜が過ぎていった。
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