第1章 水の領主ステファウヌス

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 巡検への出立を明日に控えて、僕がやらなければならないことは、往く先々で通り過ぎることになる村や町への先触れを出すことだった。  巡検とはいっても本当にただ見て回るだけだからそんな大変な準備は求めないのだけど。  でも行った先で泊まる宿にあぶれる領主というのも格好がつかない。  せめて宿と食事の確保はしておいて欲しいなあ、という、すごく腰の低いお願いを伝令に託すと、あとはいつもどおりの時間に午後のお茶を飲むことができた。 「兄様、ほんとうに準備はもう大丈夫なの?」 「ほんとうのほんとに、もう大丈夫だって」  朝から煩いぐらいに聞いてくるマーリンの声も次第に小さくなってきて、そろそろ質問するのもやめてくれそうだ。  薫り良い紅茶に色とりどりの砂糖菓子。ビスケットにクリームを乗せて齧ろうとしたところで、ラジルがやってきた。マーリンの表情が目に見えて緩む。 「ステファン、困ったことが起きた」  齧ろうとしたビスケットが行き場を失う。マーリンは中腰だった腰を椅子に下ろしてラジルの方を向き、大人しく次の言葉を待っている。 ……もう少し兄に対してもそういう態度をしてくれてもいいと思うんだけど。 「どうしたんだい。取り合えずその空いている席に座りなよ。お茶を淹れるよ」  よくよく考えれば領主である僕自身がお茶を淹れる必要はない気がするけれど。  でもすぐにお湯を現出させる能力というのは身分を超えて有用なものなのだ。  ラジルは軽くマーリンに微笑んでから椅子に座り、僕が渡したお茶を一口飲んでから話題を切り出した。 「一人、どうしても巡検に同行できない者がいる。奥さんがそろそろ出産らしい」  それはしょうがない。 「でも足りないのは困ったな。一応、形式だけでも人数を揃えないといけないのに。出発は明日の朝だし、これから代理を誰かに頼むのも難しいよね」  巡検は形式を重んじるから、せめて数だけは何としても揃えなければならない、というのが実情。 「ねえ、兄様。ほんとうに困っている? ぜんぜんそんな口調に聞こえないわ」  事態をそう重く考えていない僕の思考はすぐにマーリンに見透かされる。怒られる前に、僕は前から考えていたことをマーリンとラジルに話してみることにした。 「実は前から少し考えていたことがあるんだ。最近、こういう時に呼び出すことのできる者が減っている気がする。もう少し時間に融通が利いて、城からの呼び出しにすぐに応じて、そしてある程度武術を得意とする、そんな人間を雇いたいな、って」  この公国は平和が長く続いて、町の中でもそうそう争いごとは生じない。  暴力沙汰になりそうになると、まわりの皆が協力して抑えるし、夜、日が暮れてしばらくたってから子供が一人でお使いに出ることができるほど治安が良い。  そんな年月が長く続くと城の中で働くのは家事を切り盛りしたり、書類を整理したり、そんな仕事をする者がほとんどで、よく言えば穏やかだけれど、やはりどこか心許ない。  なにか事が起きた時に頼れそうな人間がいた方が良いと思う。    僕が城にいる時ならば、ちょっとぐらいの水の魔法も、場合によってはデューイを竜の姿に戻して、そうすれば力技で済むだいたいのことは解決できるのだけど。 今回のように僕がいないとき、マーリンたちを守るような存在がこの国にはない。  昨日見た王の使者の甲冑姿を思い出す。僕がいなければ、あの使者たちだけでこの城のみならず城下町を制圧することは不可能ではない。  それほどまでにこの公国は無防備で無力だ。  そんな僕の、おそらくは行き過ぎた考えをマーリンに伝えるつもりはないけれど、でもやはり、妹だ。大切な僕の家族。 「だから腕に覚えのありそうな武人を巡検の道中のどこかで見つけて、試しに雇ってみようかなと思っているんだ。城の近くにはそういう人間はいないだろうし国境に着くまでに出会えればいいなあ、って」  見つかったら巡検に同行してもらって、武術の腕とか人柄とかが良さそうだったら城まで連れてくるよ、そう云うと、マーリンは首を少し傾けて僕の言葉を吟味した。 「確かに、頑丈な人を雇うのもいいわね。兄様、力仕事はぜんぜんできないんだもの」  うわあ。  僕の気遣いを無視してこの妹は何を言ってくれるんだ。  僕は憮然と、さっきから放っておかれたままだったビスケットを口に入れた。
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