第1章 水の領主ステファウヌス

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 巡検に出立する明日の朝は早いから、僕はいつもより早く寝台に上がった。  絶対に眠れないとは分かっていたけれど仕方ない。起きていたってすることはない。それでも目を閉じていると、うつらうつらと、次第に眠気にのまれていくのが分かった。  こんな時は奇妙な夢を見るものだ。  夢の中のぼくはまだ五歳ぐらいの子どもで、城門の上から外を見下ろしている。  さっきまで空を血のような赤い色に染めていた夕焼けは地平線の彼方にその名残りを残すだけ。空には三日月が掛かっている。僕は母を待っていた。  その日の昼頃、国境の巡検に出ていた母から急な知らせが寄越された。  知らせは母が鳥に変化させた竜によってもたらされ、その足に結わえつけられた千切れた紙片を一瞥した父の顔色が変わった。そして城の中が急に慌ただしくなった。  城の中の誰も僕の相手をしてくれなくて、でも僕はただ母が帰ってくるというその事実だけが嬉しくて、城門の上で一人、ずっと母を待っていた。  赤い空。昼から空に掛かっていた白い三日月。  それはこれまで一度も思い出したことがない新鮮な記憶だった。何故だろう。夢を見ている僕が疑問に思う。何度も思い返した記憶ではない。今、初めて思い出した記憶。どうして。  夢を見ている僕と母を待っている僕は、目線をずっと城の外に向けている。  母は使役する竜を馬に変え、それに乗って城を出て行った。帰ってくるならあの美しい白い馬に乗って、蜂蜜色の長い髪を風にそよがせながら城門をくぐってくるはずだ。  そうしたら僕は城門の階段を駆け下りて、母の腕に抱き上げられる。  ステファン、ただいま、いい子にしていた?  笑顔の母がそう言いながら、その頬を僕の頬につけてくる。やわらかな肌。微かな花の香り。僕はそれを信じて疑わなかった。  なのに嫌な胸騒ぎ。僕はこの後に起こることを知っている。  知っている? 今思い出した記憶なのに。いや、忘れていた記憶。これはいつ。これは母が。  混乱する僕の耳に、馬の蹄の音が聞こえてきた。  優雅で軽やかなギャロップではない。全力の疾走だ。しかも一頭だけ。  母は巡検に十数名ほど、腕に覚えのある配下を連れて行った。彼らはどうしたのか。  いや、あの凄まじい勢いで駆けてくる馬の後を、複数の馬の足音が追ってくる地鳴りのような響きが聞こえる。  母だけが急いで城に向かって、配下の馬は後から着いてきているのかもしれない。僕は馬に乗ってただ一人、城門に近づいてくるその人影が母だと信じて疑わなかった。  目を凝らして人影を確かめる。  確かに母のようだった。けれど様子が変だった。  いつもは風に軽やかに揺れる長い髪がべったりと肩に貼り付いている。  巡検に出た時、その肩に掛けていたのは柔らかな乳白色のマントだったが、今、母の体に纏わりついているのは黒っぽい布のように見えた。  馬も白馬ではなく、まだら模様が背や腹にある。でも、紛れもなくそれは母だった。  僕の足下、近づく母は馬の足を緩めないまま城門に突っ込んできた。 「門を閉じて! 今すぐに!」  母の絶叫が聞こえた。  城内に入ってすぐ、母を乗せた馬は横倒しに倒れ、泡を吹いて大きく痙攣した後、動かなくなった。  脇腹に大きな切り裂かれた傷。まだら模様に見えたのは馬が流した血液だった。竜を変化させたその馬は、命の火が消える直前の一瞬だけ元の竜の姿に戻り、すぐに細かな灰塵になって崩れ落ちた。  母が長年使役し、可愛がっていた竜。僕が竜が死ぬところを見たのはそれが初めてだった。  地面に投げ出された母も、身動きをしようとしなかった。  自慢の蜂蜜色の長い髪は、背中から流れる彼女の血で濡れて、乳白色のマントも血に真っ黒に染まっていた。  待ち構えていた城の者達が総出で重く大きな城門を閉ざしたその後に、外から門扉を叩く大きく乱暴な音が聞こえてきた。  城の中から何本もの丸太が運ばれてきて、門が内側から補強されているその間、駆け付けた父が母の体を抱え上げて城の中に運び込んだ。  五歳ぐらいの子どもの僕は何が起きたのか分からなくて、ただ恐ろしいことが起きたことは肌で感じていた。  門の外から響いていくる金属がぶつかり合う音、男たちの低い声、何頭もの馬の蹄鉄が石畳を打つ音。  闇が包みはじめた城の前庭で、口を開く者は誰もいなかった。  月。  三日月。  糸のように細い。  何か、大きな生き物が夜空を横切って飛ぶ気配があった。  寝床から起き上がると、首筋を汗が伝っていくのが分かった。  背中も汗で濡れている。これは母の記憶。僕はこの後、寝台に横たわる母の枕元に呼ばれて、魔力を封印された。なぜ今まで思い出さなかったのだろう。母はあの時、魔力とともにこの記憶も封印したのか。  枕元には父から預かったオルゴール。  持ち上げるとその冷たさが手の平に心地よい。寝る前に見た時よりもほんの少し、蓋の隙間が開いているように見えた。  カタン。コトン。中にはやっぱり何かが入っている。  この繊細な飾り物を巡検に持って行くわけにはいかないだろう。僕は寝台を出て本棚の奥にオルゴールを置いた。  窓の外には今夜、何もいなかった。
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