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夢を追い上京。初めての一人暮らし。入居一日目のその夜、ダンボールの荷解きは必要最低限にして、六畳一間の新居にセッティングしたテレビをゆっくり見ながら"引越し疲れ"を癒していた。時刻は午後十時を少し過ぎたところ。すると突然、
「ぐぅ〜〜〜……がぁ〜〜〜」
テレビの音声をかき消してしまうのではないかというくらい大きなイビキが、この部屋にこだまし始めたのだ。家賃が安いだけあって、ボロアパートの部屋を隔てる壁が薄かったこともあるだろう。その重低音は易々と壁を乗り越えてくる。これはひどい。入居時に挨拶した時には、年の割にダンディーで素敵な老人(男性)だなと好印象だったのに、まるで地政学リスク再燃で急落する日経平均株価のようにイメージは急降下する。そのうち隣人と戦争になるかもしれない…くそ老人め。
ここまでうるさいと、眠る時はヘッドホンをしてうっすらフィーリングミュージックをかけるしかないかもな…。引越し早々、これが毎晩続くのかと思うと気が重くなる。ただ運が悪かったと言われればそれまでかもしれないが、完全に物件探しの盲点をつかれてしまった。
一方で俺自身は日々音楽活動に注力するつもりなので(そのために上京したのだ)、部屋にいる時はたいがい楽器を触ることになる。時にはギターを弾きながら口ずさむことさえあるだろう。その騒音は間違いなく薄壁を通して老人にも届くことになる。でも"深夜のイビキ"に比べたら随分マシなはずだ。少なく見積もっても"お互い様"だろう。ただきっと本人は自分のイビキの大きさを自覚していない。そして仮に自覚があったとしても決して止められるものではないのだ。相手の立場を思うと俺の方により重い罪があるようにも思えた。
まあでも知ったこっちゃない、結局俺は引越し後の数週間、"イビキの仕返し"とばかりにステイホーム音楽活動を気兼ねなく続けた。それに負けじとばかりに老人のイビキは毎晩続いた。
そしてある時、急に玄関の扉がノックされる(ボロアパートのためインターホンすら無い)。ちょうどその時、ミニアンプに繋いだエレキギターの音がなかなかの音量で部屋にこだましていた。ノック音になんとか気づいた俺は、ギターを弾く手を止めて玄関の扉を開ける。
訪ねて来たのは問題の老人だった。
「ど、どうも」
「やあ、音楽が好きなのかね?」
「いや、まあ…そのために上京してきたというか…」
「なかなかセンスあるじゃないか。ワシはこういうものだが…」
渡された名刺には、某有名プロダクションの副社長と記されている。
音楽業界のエラいさんが隣人なんて、そんな偶然があるだろうか。しかも名刺を渡してくれるということは脈アリの可能性もある。そもそももし"音楽騒音"の苦情を言ってきたら、"イビキ騒音"のことで言い返そうと身構えていたのに…。予想外の展開にドギマギしていると、
「君の音楽は全くうるさくない。むしろ心地良いくらいだ。だからそのあたりのことは気にせんでいい。これからもこの部屋で音楽活動をのびのびとするがいい。またノックさせてもらうよ」
老人は俺の心を読んだようにそう言い残して、自室に戻って行ってしまった。
我に返った俺は、部屋に戻って元々録音してあったオリジナル音源を老人に聴いてもらうことにした。彼は快く受け入れてくれ、俺を自室に招き入れると、目の前で一曲一曲丁寧に聴いてくれる。そして信じられないことにオリジナルを心から気に入ってくれ、『うちの事務所に来ないか』ということになり、所属アーティストとして活動できるまでになる。
それからというもの、彼のイビキがどれだけうるさくても、ほとんど気にならなくなっている自分に気づいた。夢を掴む代償としては随分とちっぽけなものではないか。
それからも老人とは所属事務所を通して濃密な関係が続いた。ある日、なぜこんなボロアパートに住んでいるのか、老人に聞いてみたことがある。彼は学生時代ここに住んで以来、一度も引越しをしたことがないらしい。当時、イビキのうるさい隣人が音楽関係者だったそうで、そのおかげで音楽の夢を掴むことができたと。今の俺とほとんど同じだ。その隣人はなんと老人と同じプロダクションの社長だったそうだ。いよいよ高齢となり引退を決意、それと共にこのボロアパートを卒業したらしい。俺はその空き部屋に引越してきたことになる。
そしてその話の最後に老人は言った。
「おそらく気づいてはいないだろうが、君はワシに負けず劣らずイビキがうるさいぞ」
どうもこのボロアパートには、不思議な運命のループが存在するらしい。俺はもう一生引っ越すことはないだろう。このままずっとこの部屋に住み、いつか隣の部屋に来る若き夢追い人に伝えるのだ。
『君の音楽はなかなかセンスがある』と。
それまで俺はこの部屋でもっと大きく成長しないといけない。
老人のイビキをBGMに俺は日夜音楽活動に励んでいる。
「ぐぅ〜〜〜♫……がぁ〜〜〜♫」
【完】
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