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日向子、ロックオン!
「馬のしっぽ、発見!」
近頃は春が短い。
あっという間に夏が来る。
宇治原 日向子は夏生まれだ。
だからと言って夏が好きと言う訳では無い。
暑いし、焼けるし、汗をかくし。
その夏を目前とした梅雨時の、ジメッとしたアスファルトの上。
日向子は三日ぶりにその男を発見した。
「カイさーんっ」
二十メートルほど先を物凄く不真面目な格好をした男が歩いている。
そのペッタンペッタン音がしそうな歩き方も、背中で一纏めに結ばれて揺れる馬のしっぽみたいな、肩甲骨までの黒髪も見間違える筈がない。
「おぉ、おはよー……ヒナちゃん」
彼は日向子の三つ上、ギリギリ二十代の二十九歳だ。
撥水スプレーを振り倒したスニーカーを鳴らして、日向子はニコニコとカイに追い付いた。
「相変わらず、朝は苦手そうですねー」
「うーん、やんなっちゃうよねぇ……ほんと」
ヒナちゃんは元気だねぇ、とカイが日向子を見下ろして笑う。
「今日は早起きですね、私も」
こんな所で会ったのは今日、日向子がいつもより早い出勤だったからだ。
時刻は九時半。
今日はやらなければいけない事があるので早めに出勤したけれど、いつもは十三時出勤だ。
「大変だね」
厚底のハイトップブーツにパンツをインして、どこで買ったのと聞きたくなるくらい鮮やかなレインボーカラーのTシャツに、黒のロングカーディガン。
……チャラ過ぎる。
厚底のせいで二メートル超えてるんじゃないかと思う。
彼は日向子が勤める学習塾の、道を挟んだ三軒隣りのビルで働いている。
「ああ、ヒナちゃんこれあげる」
カイはいつもどこか不誠実な雰囲気で、薄く笑っている男だ。
ニコニコ、のらりくらり、飄々、色んな言葉が当てはまる……つまり掴み所のない男である。
「あ、嬉しい」
だるんだるんのカーディガンのポケットから、うまい棒が出てきた。
……安定のサラミ味。
「今晩も遅いの?」
「そうですねぇ、終電は逃さずに帰ろうとおもってますよ?」
学習塾は夜からが本番だ。
授業を終え生徒を帰して雑務や明日の準備などをこなすと、帰りは終電ギリギリの日もある。
「女の子だし、夜は危ないよ?」
「あはは、大丈夫ですよぉ、駅まで明るいし」
実際今まで危ない事は無かったし、日向子には足に自信があった。
元女子テニス部。
今でも時々ジョギングしてるし。
「そお?気をつけなよー」
「ご心配ありがとうございます!」
何にせよカイと話せるのは嬉しい。
これは日々馬車馬の様に働く日向子の、一時の幸せな時間なのである。
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