春の日

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 彼女から声がかかるのを待とうか。それとも、まだ遠くの人影の彼女を探して、両手を大きく振ろうか。  そんな大胆なこと、私の柄ではないか。自分が小心な男であることは、十分理解している。  そろそろ彼女が来る頃だろうか。  太陽が昇って、河川敷の草花が光る。雲一つなく、遠くのビル街の姿もくっきりしている。風は穏やか。緩やかに流れる水面を見つめながら、彼女を待つ。  「おはようございます、坂下さん」 彼女から声がかかる。 「おはようございます、小野さん」 私は、いま気付いたかのように振り返って、彼女に笑顔を向ける。  本当は、彼女が近付くのを背中に感じていた。一歩また一歩と近づく彼女を。  「今朝も早いですね」 彼女の肩までの髪が揺れる。何気ない笑顔がまぶしい。 「なんだか癖になってしまって」 嘘だ。毎朝目覚ましを5分おきにいくつもセットしてなんとか起きている。  「ペル、待てよ」 この声に、ペルのおやつを渡されるのを私も待つ。 「はい、坂下さん。お願いします」 手と手がわずかに触れる。 「ペル、よし」 立ちあがってうれしそうにおやつを貰う白いもじゃもじゃの大きな犬。本当は、犬は好きじゃなかった。  ひと月前、半ば無理矢理に友人から犬を預かるよう頼まれて、断り切れなかった。しかたなく預かった犬は、茶色のもじゃもじゃした小さな犬で、ペルといった。思ったよりも大人しく、人懐っこさがあり、可愛かった。  早起きは得意ではなかったが、ペルの散歩のため、早起きした。  近くの河川敷を散歩コースに決め、気分良く歩いた。  少し立ち止まって、リードを伸ばして、「ペル、おいで」と呼んでみると、呼ばれて寄ってきたのは、ペルともう一匹のペルだった。  二匹してお座りして、尻尾を振っている。  「すみません、リードを離してしまって」 と走ってきた彼女は、小柄でとても愛らしい人だった。アーモンドの瞳にサクランボの唇、明るい髪色に華奢な首筋。一目惚れとは、こういうものなのだと、その時私は知った。 「ペルったら、本当に坂下さんが大好きみたい」 白い大きなペルがゆっくりと尻尾を振って、私の傍らでくつろいでいる。 「私も、毎朝ペルに会えてうれしいです。あ、もしご迷惑だったら言ってくださいね。そうそう、あっちの小さいペルにも先週会いに行きました。まだ覚えていてくれるのか、甘えてきてくれましたよ」 「坂下さん、本当にわんちゃんが好きなんですね」 彼女がにっこりと笑う。  私は、うまく返せないでただ笑うしかない。  「わ、わんちゃんも大好きですし、こ、この場所も大好きでして、それで毎朝来るんですよ。特に、今の季節がいいですね。菜の花が咲き乱れて、蝶々が飛んでいて。毎朝ここに来ると、元気が出るんですよ」  嘘だ。ここにそんなに思い入れなんてない。また嘘をついた。奇しくも今日はエイプリルフール。許して下さい。  本当は、私が朝早くここに来る理由は一つ。  でも、彼女と毎朝話すようになってひと月。まだひと月だ。まだ、食事に誘ったことすらない。私が知っているのは、彼女は犬が好きで嘘が嫌いということ。まだ言えない。もう少し。もうちょっと仲良くなったら。きっと。きっと。  「あなた、あなた、まだ逝かないで。起きて。目を開けて下さい」 ああ、夢を見ていた。懐かしい、気恥ずかしい夢だ。ああ、彼女の声がする。起きないと。謝りたいことがあるんだ。  ゆっくりと目を開けると、すっかり白くなった髪を乱して彼女が泣いている。私の枯れた手は、その髪を撫でることも出来ない。  「美智さん、あなたはいつも変わらず、可愛らしいですね。さあ、泣かないで、聞いて下さい」  美智さんは、頷いて私の皺だらけの手を握ってくれた。  「あの日、あの春の日、河川敷で、私はあなたに、嘘をつきました」  美智さんが、白い眉を上げる。  「あなたが、私との結婚を、決心してくれた時、嘘はつかないと、約束しました。でも、恥ずかしくて、言えなかったのです」  美智さんは、静かに聞いてくれている。  「私が、河川敷に、毎朝せっせと通ったのは、あなたに、会いたかったからです。犬が好きなわけでも、あの場所が特別だったわけでも、ありません。ただ、あなたに、会いに行きました。あなたが、大好きでした。それだけ、でした」 私が言い切ると、美智さんは、 「知っていました。わかっていましたよ」 と笑った。 「あなたも、あなたのかわいい嘘も、全部、愛しています」 美智さんがまた可愛く笑う。 「私も、美智さんの全部を、愛しています」 そう言うと、私の瞼は重くなり、目を閉じたのだった。
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