第1話 浮かれない夏

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第1話 浮かれない夏

 すっかり日が暮れた週末の夜。  バスの窓から見える大通りは、いつもと雰囲気が違って見えた。  夜の明かりに変わった街中は、仕事終わりの勤め人が多く歩いている。しかしそれ以上に駅や繁華街へ向かい歩く、プライベートを過ごす人たちの姿が目に留まった。  バスの向かう先は、わりと大きなターミナル駅ではあるが、毎週末、こんなにも人が多いわけではない。 (学生はもう大体、夏休みだからな。会社員も早めの夏休みに入ってる人が、結構いるだろうしな)  エンジン音がわずかに響くバスの車内で、あくびをかみ殺した(みね)(ぎし)(かず)()は、頭の中で今日の日付を思い浮かべた。  七月半ば過ぎ。最近、長い梅雨が明けたばかりの初夏。児童も学生も、待ちに待った夏休みへ突入したところが多い。  浮かれる子供たちに反し、大人は普段いない時間にも在宅している子供たちに手を焼いたり、家族サービスをしたりで、大変な家庭も多いようだが。  これから旅行や帰省する人が、ますます増えるだろう。この調子ならば駅周辺だけでなく、どこへ行っても混み合っているに違いない。せっかくの休みに、人混みに煩わされるのは遠慮したいところだ。  大人しく家に篭もるのが吉と思えた。  一真は会社員とは少々異なる、私立高校の教師だった。基本的に日曜祝日、正月休み以外は仕事だ。たまに土曜やほかの日が休みだったりはあるけれど。  常日頃、拘束時間が長く、忙しい勤め先の高校も先日、夏休みに入ったばかり。もちろん教師は生徒と一緒に夏休み、なんてスケジュールにはならない。  部活動の顧問などは朝から晩まで忙しく、平常時より大変だという声も聞く。ただ一真はクラスの担当も、顧問もしていないので、ほぼ通常の業務のみ。  本日、学校を出た時刻が二十時を過ぎていたとしても。  毎日ほぼ残業ではあるものの、明日から、久しぶりの連休と思えば、いくらか心が軽い。全員で夏休みといかない教員たちは、相談し合い、うまく皆で有休を取るのだ。  今回の一真は、土日を含む三日間の休み。  ほかの職種の者が聞けば、短く感じるだろう。しかし春の大型連休の時、運動部にフォローを頼まれ、一真は休み返上だった。ゆえに、年末年始ぶりの長い休みなのだ。  今夜は家に帰ってのんびりと、酒を飲みながら映画でも観よう――  そんなことを考えていた一真だったが、駅前でバスを降りて、電車へ乗り継ごうと改札に向かう途中、母親からの着信があった。  手元で震えるスマートフォン。なんとなく嫌な予感を覚え、一真は整った眉をわずかにひそめた。けれど無視をするとあとからうるさい、と思い直す。  仕方なしに、改札に向けて歩いていた足を、ひと気の少ない通路脇へ方向転換させた。 『遅い、無視をする気でいたでしょう』  開口一番、文句が出てくるあたりが、非常に母らしい。そして息子の考えはお見通しのようだ。  無意識に一真の口からため息が出た。 「通行の邪魔にならない、通路脇に移動してただけだ」 『あなた、もしかして休みの前なのに、まっすぐ帰る予定なの? 最近恋人、いないわねぇ。別に結婚とか考えなくていいのよ? ()()()()が孫を見せてくれるから、あなたの相手は男の子でも問題ないわ』  電話口の向こう側にいる、息子が口を挟む間もない調子で話すのも、彼女ならではだ。  長い付き合い、そんな性格に慣れているものの。話の内容が交際相手、恋人に関することだとわかり、一真はげんなりとする。  自分の性癖を理解し、ごく自然と受け入れてくれる寛大さはありがたい。だがいくらありがたくとも、いまの一真は誰とも付き合う気がなかった。 『伴侶や恋人のいる生活が、必ずしも幸せとは言わないけどね。母は母で心配になるものなのよ。もう二十七歳でしょ? 顔はお父さんに似て抜群にいいのに、ちょっともったいないわねぇ』 「そのうち、いい相手が見つかれば考える。いまはまったく気が乗らない」 『そう、仕方ないわね。いい人が見つかったら紹介してね。あ、そうそう。真未がカニをたくさん送ってくれたから、少しお裾分けで送るわね』  本来の用件は数秒で終わり、通話も終了。  母はお節介な面があるものの、無駄に長話しないのは良いところだ。 「なんか、このまま帰ったら、負けた気分になるな」  一体、なんの勝敗なのだと、自身に突っ込みたい気持ちが湧くけれど、一真はすでに向かう先を変更していた。  駅の近辺を思い浮かべて、ピンときたのは、最近すっかりご無沙汰のバーだ。元々、一真はあまり一人で飲みに行かないので、一年以上は訪れていない。  元男性の店主が長く営業するそこはゲイバーで、常連ばかりが集まる店だった。居心地は悪くないが、一人だと声をかけられる場合もあり、一真は少々面倒くさく感じていた。  母親が言ったように役者かモデルか、と誰もが口を揃えるほど、見目が非常に整っている父親。  彼に似たため、本人の意思と反して、一真の容姿はとても目立つ。  切れ長な色気のある目元に、ゆがみのない鼻筋。軽薄に見えない程度の薄めな唇は、軽く口の端を上げるだけでも様になった。  長身でスタイルのいい体型は、誰しも羨まずにいられないだろう。大学時代は見た目を生かしてモデルをしていた。  いまはあまり人の目に触れる機会がない、ごく普通の高校教師だけれど、見目の良さは隠しようがない。  父親譲りの薄茶色い髪は、教師としていささか目立つ。いまは焦げ茶色に染めてあるものの、さらさらとした髪が風になびく姿は、さながら貴公子のよう。  落ち着きのある大人びた風格から、高校時代のあだ名は〝キング〟だった。  生徒会長をしていたのもあるのだろうが、学校内だから許される、キラキラネームに近いあだ名だ。敬意を込めて称されていたらしいので、やめろとは言えなかった。  一真の人を惹き寄せやすい体質は現在も変わらず、生徒の親たちからも人気が高いと、ともに働く教師に聞かされたことがある。  授業がわかりやすく、比例して子供の成績が上がったとなれば、人気はうなぎ登りだ。  他者からの第一印象は、見た目の派手さが先立ち、大抵がチャラそう――なのだが、一真の性格はわりと慎重。  華やかな容姿とは逆に、派手なものは好まず、空気を読むのが得意なため、年配にも好まれやすい。  周りに言わせると、そのギャップがまた高ポイントなのだとか。 「あらぁ、いらっしゃい。久しぶりね」  繁華街の裏側。ひと気の少ない路地を抜けた先にひっそりと佇む、ビルの半地下に店はある。扉を開けると陽気な店主の声が響く。 「こっちの席へどうぞ」  一真が勧められたのはカウンター席で、ボックス席から距離がある、壁際の静かなスペースだった。  しばらく来ていなくとも、一真の性格を忘れていないのはさすがである。長く店を続けられる才能の一つだ。  そんな店主――ミサキは、緩やかに波打つ栗色の髪に、切れ長の目をしたクールビューティーだった。この顔と明るい性格に惚れて、プロポーズをした男は数知れず。 「先生になってから、全然来てくれなくなったわねぇ。無難なグレーのスーツも、格好良く着こなしちゃう男前さん」 「忙しいのは確かだけど、別にそれだけが原因じゃない」 「あら、そうなの? いま何年目だったかしら? 最近は自分のクラスを持ったりはしてないのね」 「五年目になると、さすがに若いのにそう言うのは任せる形になるな」  二年目、三年目あたりはクラスを任され始め、忙しさのあまり日々が倍速で過ぎた。本当に朝から晩まで働きづめで、要領のいい一真でさえ過労死――の文字が、頭をよぎったほどだ。  その分、あとから入る後輩にはなるべく親切にしてやろう、という気持ちが芽生えた。 「ふぅん。それでもここへ寄りつかなかったってことは、出逢いとか面倒だったのね。もしかして相変わらず独り?」 「なんでみんなして、同じような質問をしてくるんだ。――まったく」 「ごめんなさい。言われたばかりかしら? だって、こんな男前が売れ残ってるなんて、信じがたいじゃない? つい確認したくなるわよね。一真は自分の顔を見すぎて貴重さを感じてないのよ。この甘いマスクに落ちない女も男もいない……ことはなかった、わね」  いつもの酒を用意しながら、快調にお喋りをしていたミサキの声が、尻すぼみになっていく。持ち上げたいのか、嘲りたいのかわからない。  しかしすぐにそわそわっと、ミサキの視線が泳いだ。一真を持ち上げるつもりが、余計な話をしてしまった、というところだろう。  目前に置かれたグラスを黙って手にした一真は、小さくため息をついてから、アルコールを喉へ流し込んだ。
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