124人が本棚に入れています
本棚に追加
「オレ、今まではエスコートする側でさ。工夫しなきゃってそればっか考えちゃって。行き先決めるの、あんまり得意じゃなかったんだよな。でも朝陽が連れてってくれるところは、なんて言うか……ザ・デートって感じの場所で、逆に新鮮で。オレすげー楽しくてさ。水族館かあ、行きたかったなあ」
彼女がいる時は流行っているものや場所、世の女の子たちがなにを望んでいるのか、いつも徹底的に調べ上げた。歳を重ねる度、彼女の目に期待がありありと見える度、趣向を凝らすことに神経を使ってきた。それが恭生なりの誠実さだった。
だが朝陽に全てを委ねるデートで向かう先は、言ってしまえば初心者向けだ。『初デートならここ!』なんてタイトルのサイトに、特集されていそうなスポット。
なのにつまらないどころか、どこに行っても不思議なくらい胸が躍った。過去の自分はなにか勘違いをしていて、本当はそんなに頭を悩ませることではなかったのかもしれない。
朝陽と過ごす時間は、恭生の心をいっぱいに満たす。離れていた年月の長さが、余計にそう感じさせるのだろうか。
緩む口元をそっと隠していると、ぼそぼそと落ちるような声が耳に届いた。
「――だけど」
「ん? 聞こえなかった、なに?」
「恭兄が初めて、って言った。付き合うの」
「へ……マジ?」
「こんなん、嘘ついても仕方ないだろ」
「…………」
拗ねたような、どこか不機嫌な口調でそう言って、朝陽は視線を逃がすが。にわかには信じがたい事実に、食い入るように朝陽を見つめてしまう。
だって、ちゃんと理解している。恭生にとって朝陽がどんなにかわいい弟でも、世間一般的にはいわゆるイケメンだ。性格だって優しくて、勉強もスポーツもできる。モテない理由がない。先ほどの女の子たちがいい例だ。それなりの数の告白を受けてきただろう。
なのに。今まで誰とも付き合ってこなかった? どんなに信じられなくても、朝陽がそう言うのならそうなのだろう。
もしかしなくても、とんでもないことをしているのではないか。仮とは言え、朝陽の初恋人の座を幼なじみの男がもらっていいのだろうか。
だが他でもない、この仮の恋人関係は、朝陽の提案で始まったものだ。それに高揚してしまっている自分に、静かに戸惑う。
「そ、っか。うん、分かった」
心臓の底がふわふわと浮くような、不思議な心地を持て余していると。スマートフォンで時間を確認した朝陽が、長く息を吐いて言った。
「じゃあ、俺そろそろ帰る」
「うん」
「恭兄。今日の分」
「……ん」
きょろきょろと辺りに人がいないのを確認し、朝陽が両腕を広げる。それにそっと頷けば、大きな体に包みこまれる。
あの日――恭生が恋人に振られ、朝陽と仮の恋人になって以来。ハグと頬へのキスは、さよならの際のお決まりになった。もう何度もくり返して、その度に懐かしさとあたたかさに満たされてきたのに。
今日はなぜだか、今までのそれとはどこか違った心地がする。
「恭兄?」
「んー?」
「どうかした?」
「別に?」
不愛想に返せば、朝陽が顔を覗きこんでくる。だが恭生は、目を逸らしてしまう。今どんな顔をしているか、自分でも分からないからだ。
「……もしかして照れてる?」
「っ、はあ? オレが? なんで?」
「だって、顔赤いよ」
「……マジか」
今までのハグは、戯れの延長線にあった。小さい頃のじゃれ合いと同じ、ただふたりとも大人になっただけ。
そうだったはずなのに。
「なあ、朝陽。こういうのも初めて……ってこと?」
「こういうの?」
「その、ハグ、とか……」
「うん。恭兄としかしたことない」
「…………」
その事実が、ぽとりと胸の辺りに落ちてゆく。くすぐったくて、あたたかくて、美しくて。触れていいのか分からなくなる。
だってそれは、大事なものではないのだろうか。初めてで、唯一なんて。
それを自分がもらっていいのだろうか。かわいい弟の、生涯に一度の大切なものを。
「なあ朝陽、なんでオレと……」
「恭兄」
不安になって顔を上げると、一瞬でまた距離が縮まった。それに気づいた瞬間にはもう、頬でリップ音が鳴ってしまう。
「あっ」
それから、そのまま耳元で朝陽はささやく。
「恭兄、もう一回言わせて。お誕生日おめでとう」
「……っ!」
飛ぶようにして、勢いよく距離を取る。朝陽はくすくすと笑っていて、どうやらしてやられたようだ。
腹が立つ、だけど憎めない。なにか言ってやりたいのに言葉が出てこず、朝陽の胸元をトンとたたいた。
「顔真っ赤」
「覚えとけよー、朝陽」
「ふは、うん。絶対忘れない。じゃあ、ほんとに帰るね」
「……ん。気をつけてな」
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
人の心を散々かき回しておいて、朝陽は数歩後ずさってからあっさりと去っていった。恭生はと言えば、朝陽が見えなくなった道からもうしばらくは目を離せないというのに。
最初のコメントを投稿しよう!