知らない鼓動

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 一月。厚いコートを羽織り、首にはマフラーを巻いて。恭生はスマートフォンを片手に、慣れない街を歩いているところだ。  向かう先は、某大学の体育館。朝陽が誘ってくれた、バスケットボールの試合を観戦するためだ。  余裕を持って出てきたつもりだが、少し迷ってしまった。試合開始ギリギリの到着になりそうだ。  無事に到着し体育館に入ると、バスケットボールの弾む音が聞こえてきた。それから、バッシュの底が床に擦れる音。急かされる心地がして、観客席が設けられた二階へと急ぐ。  他大学との気楽な交流戦、と朝陽は言っていなかったっけ。現れた光景に、恭生は一瞬圧倒されてしまった。結構な人数のギャラリーが集まっていたからだ。  ゴールポストの両側どちらにも、大勢の人たちが座っている。それぞれの大学の生徒だろうか。歓声を上げる彼らとは少し間を空け、いちばん後ろに恭生も腰を下ろす。  コートに目を向ければ、朝陽をすぐに見つけることができた。背の高い学生が多い中でも、朝陽はひと際目立っている。赤のビブスを着用しているのが、朝陽のチームのようだ。  ああ、やっとだ。やっと、朝陽のプレイを見ることができる。口元が緩むのをどうにも抑えられず、恭生は左手の節をくちびるに押し当てる。  朝陽が中学生の時だったなら、高校生の自分はきっと声を張り上げて応援しただろう。  高校生の朝陽には、ひとり暮らしで自炊を始めたあの頃の自分なら、お弁当でも作って差し入れたかもしれない。  そのどれもを他でもない、自分の勘違いで逃してきてしまった。後悔がまた襲ってくるがその分だけ、今この場にいられることを、朝陽が招待してくれたことを、胸が震えるほど幸福に感じられるのもまた確かだ。  大学生になった朝陽を、じゃあ今の自分は、どんな風に応援できるだろうか。昨夜は電話をして、楽しみにしている、頑張れとエールを送ったけれど。誰ひとり知人のいない状況が、大きな声を出すことを躊躇させる。  どうしたものか、と考えていると、1クウォーターの終了を報せるホイッスルが鳴った。コート上の朝陽がシャツの襟をつかみ、首の汗を拭いながらこちらへと視線を上げた。それを受けてか、女性たちが色めき立つ。だがそれを気にする素振りもなく、朝陽の瞳は恭生だけを捉えた。こちら側へと数歩駆け寄り、 「恭兄!」  と嬉しそうに手を振ってくる。 「あ……」  その姿に、不意に幼い頃の朝陽が重なった。恭生を見つけたら、どんなに遠くからでも名前を呼んで、駆け寄ってくる姿だ。健気で愛らしくて、その度に、朝陽を大事にするのだと決意を新しくしていたのを覚えている。  なにを躊躇うことがあっただろう。恭生は立ち上がる。階段状の客席を下り、柵に手をかける。口元に手を添えて、名前を呼ぶ。 「朝陽! 勝てよ!」 「もちろん!」  勝ち気な笑顔でピースサインが返り、恭生もそれを真似る。なんだか可笑しくてお互いに吹き出し、そんな些細なことすらも今日の日の喜びだなと噛みしめる。  間もなく、試合再開の合図が鳴った。元の席に戻るのもな、と恭生はすぐそばの席に腰を下ろす。コートの端に位置するからか、運よく空いていて助かった。  朝陽のプレイがまた楽しみだ。せっかくだから写真に収めたいが、一秒も逃さず見ていたい気持ちとせめぎ合う。  試合展開に息を呑みつつ悩んでいると、後ろからトントンと肩を叩かれた。周囲には誰もいなかったはずなのに、と驚きつつ振り返れば、そこには女の子ふたりの姿があった。 「…………? えっと。もしかしてここにいると迷惑でしたか? すみません」 「いえ! そんなことないです! そうじゃなくて、あのー……」 「あの! 柴田くんのお兄さんなんですか!? 私たち、柴田くんと同じ大学に通ってて」 「ああ、そうなんですね。オレは、えっと……」  なるほど、さっきの会話を目撃され、一体何者なのかと思われたようだ。  兄です、と答えるのは正確には違うし、かと言って否定するのもどこか切ないものがある。朝陽を弟みたいに想っているし、今まで築いてきた朝陽との関係を否定するみたいだからだ。  さてどう言ったものか。考える恭生だが、女の子たちはすっかり盛り上がっているようで、おしゃべりな口は止まらない。 「柴田くん、さっきすごくいい笑顔でしたよね! あんな顔、初めて見ました!」 「あ、そうなんすか」 「はい! どっちかと言うとクールだし、たくさん喋るタイプじゃないじゃないですか。お兄さん相手だと、ああいう感じなんですね。なんかかわいいと思っちゃって。ね?」 「ね! 新しい一面見られて、ラッキーだなって」 「えっと、朝陽ってやっぱモテるんですね?」 「そりゃもう! 勉強もスポーツもできるし、かっこいいし。何人ガチ恋してることか。ていうかお兄さんもかっこいいですね! 柴田くんとはまた違うタイプ!」 「はは、それはどうも……」  朝陽がいわゆるイケメンなのは、よく分かっている。モテるのだろうことも想像に容易かった。だが実際に女の子たちから言葉にされると、強い実感に圧倒されてしまう。  この子たち自身も、本気で朝陽に恋をしているという人数に含まれているのかもしれない。朝陽が幼なじみである自分と、仮の恋人なんて関係を結んでいる間に。  胸にくゆるのは罪悪感だろうか。それにしては、後ろめたいというよりどこかジリジリと焼けつくような感覚がする。  これはなんだろうと首を傾げている間にも、試合は展開していく。大きな歓声が上がりハッと顔を上げると、どうやら朝陽がゴールを決めたようだった。後ろに座ったままの女の子たちは「柴田くんすごい!」と興奮していて。見逃してしまった歯がゆさに、こっそりため息をついた。  試合終了、軍配は朝陽たちのサークルに上がった。  あの後、朝陽は見事にもう二本シュートを決めた。達成感に満ちた顔で仲間とハイタッチをする、朝陽の姿。見届けられたことで、恭生の胸はいっぱいだ。 「あ、お兄さん! もう帰るんですか?」  観客席を後にしようとすると、先ほどのふたり組に声をかけられた。歩くスピードを落としつつ、出口のほうへと向かいながら返事をする。 「うん、お邪魔しました」 「そんなあ。あの、この後みんなで打ち上げしようって話してるんですけど、一緒にどうですか?」 「それいいね! 是非ぜひ!」 「オレ? いや、オレは部外者だし」 「えー、お兄さんなんだから部外者じゃないですよ! 柴田くんも喜びますって」 「あー、うん、ありがとう。でも気持ちだけで。ごめんね」
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