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ひとりの男
「仮ってなんなんだろうな」
「かり? 仮予約とか、仮約束とかの“仮”か?」
「あ……うん、そう」
閉店後、店内を掃きながら恭生はついため息をついた。一緒に零れ落ちたひとり言を、思いがけず村井に拾われてしまった。
朝陽のバスケの試合を観戦して、約二週間。今週は大学のテスト期間らしく、朝陽は勉強に集中するとのことであれ以来会えていない。
疎遠だった数年があるのに、たった二週間が恐ろしいほどに長い。
「仮は仮じゃん? 一時的にとか、この先は未確定、みたいな?」
「だよなあ」
「あとはー、お試しとか!」
「お試し……」
朝陽が仮の恋人関係を提案してきたのは、もう恋愛はこりごりだと恭生が言ったことが発端だ。振られることがなければ朝陽と会えなくなる。それを寂しがったから――それから、自分と付き合えば祖父の言葉の真意が分かる、と言って。
未だに祖父の件は全く理解できていない。いや、ここ最近は忘れていたと言ったほうが正しい。ただただ朝陽のことで頭がいっぱいだった。
「よし、掃除こんなもんかな」
「なあなあ、兎野。今日暇? これから飲みに行かない?」
「うーん、パス」
「なんでだよおー!」
「ごめんな村井、また誘って」
「今度は絶対だぞー? 俺、お前と美容師談義したいから!」
「あ、それはオレもしたい。約束な」
「おう!」
どうせ今夜もひとりだ。気が紛れるかもと思えば村井の誘いは魅力的だったが、どうしても気乗りしなかった。金曜日の今日はテストの最終日で、もしかしたら朝陽から連絡があるかも、なんて淡い期待を抱かずにいられなかった。
とは言え、村井と美容師談義をする約束ができたことは素直にうれしい。つい最近まで、ライバル心から一方的に距離を取っていたのが嘘みたいだ。
変わった自分にちいさく笑い、駅のほうへと歩き出す。すっかり暮れて冷えこむ夜だが、街は多くの人で賑わっている。
仕事帰りの大人たち、若者に、制服を着た学生たち。人々の間を小走りですり抜けて、だが恭生はふと立ち止まる。
「朝陽?」
今、朝陽がいたような気がする。来た道を少し戻り見渡すと、数メートル先に本当に朝陽の姿があった。瞬時にあたたまる胸には、一瞬通り過ぎただけなのに見つけられた優越感が生まれている。
もしかして、会いに来てくれたのだろうか。朝陽のほうへ歩きだし、連絡は入っていないよなとスマートフォンを確認する。
だから気づけなかった、朝陽がひとりではないことに。
「朝陽。偶然だな」
「あ、恭兄」
声をかけると、驚いたのか朝陽は目を丸くした。たかが二週間で大きな変化など起きるはずもないが、ついついその姿をじっくり観察してしまう。
「仕事終わったんだ」
「うん。朝陽は? 大学の帰り?」
「あー、帰りって言うか……」
「ちょっと柴田、私のこと忘れてない? こんばんは!」
人がたくさんいるし、朝陽の顔ばかり見ていたから分からなかった。朝陽の隣にいた女の子は、朝陽の知り合いだったようだ。朝陽にむくれた顔を見せ、恭生には笑顔を向けてくる。
バスケの試合会場で会った彼女たちとは、また違った雰囲気だ。髪は綺麗に巻かれた明るいイエローブラウン。短いスカートがよく似合っていて、ギャルと評されるような派手な見た目の女の子。
朝陽の交友関係にこういったタイプの子がいるのは、ちょっと意外だった。
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