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男
「あの……」
不意に後ろから声がした。
「僕ですか?」
そこにはヨレヨレの上着を羽織った中年男性が立っていた。髪はボサボサでツンとする酸っぱい匂いが風に乗って漂って来た。
「はい。警察から出てきたみたいですが、警察の方ですか?」
「いいえ」
「じゃあ犯罪者?」
「はあ? そんな風に見えますか?」
「いえ、でも見かけは善人でも嘘つきはいますから」
「全くです。嘆かわしい限りです」
「ですよね? あの、本当に犯罪者ではないんですね?」
「僕は生まれてこの方嘘なんて1回も……いや、1回だけついてしまいました。エイプリルフールに甘えて。でもそのせいで連続殺人の犯人に疑われてしまいました。嘘なんてつくものじゃありませんね。あ、申し訳ありません。外に出られた嬉しさで、つい話してしまいました」
男は驚いた顔で直人を見た。
「連続殺人の……ええ、あなたは違います。そんな風には見えません」
「それが刑事には見えたようです。僕もまだまだです」
「そうですか。それは酷い目にあいましたね」
「いや、身から出た錆です。やはり嘘はついてはいけないと身にしみました。慣れない事はするものじゃありませんね」
「しかし警察も酷い。潔白の人間を捕まえるなんて。仕返しをした方がいいですよ」
「仕返し? いや、彼らも犯人捜しに苦労しているんです。逆に混乱させてしまって悪かったと思います」
自分の不用意なひと言で捜査を遅らせてしまったと直人は反省していた。
「何をおっしゃいますか。警察は世の中にたくさんいる嘘つきや詐欺師を野放しにしているんです。職務怠慢です」
「そうですね。でももっと凶悪な事件があるので手が回らないんでしょう。例えば連続殺人事件とか。そういう凶悪な事件がなければ小さな事件も取り締まれるはずです」
「……凶悪事件があるから……そうか、そうですね。その通りです。私が間違っていました」
「え?」
男は直人にお辞儀をし、意を決したような顔をして警察署へと歩いて行った。
「え、あなたは? あの……」
不思議な男だった。自分に何を聞きたかったのだろうか。直人は男の後ろ姿を呆然と見ていたが、今は早く家に帰りたかった。ゆっくり風呂に浸かりたかった。友美に会いたかった。
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