母胎に眠る客人

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「時計がこわれてしまったんです」 そう言って寂れた雑貨店に入って来たのは、美しい青年だった。歳の頃は二十代後半から三十代であろう。寸法の合うスーツにインバネスを羽織って、若紳士と言った風貌だ。 青年は懐から大事そうにそれを取り出した。絹の手巾に包まれたそれは、金の懐中時計だった。幾度も手に取られたことを誇るように、輝きは鈍い。 「拝見します」 僕は軽く頷き、時計を手に取り眺める。表、裏と返し、また頷く。 「結構なものですね。これはどちらで?」 「二十歳の誕生日、父から譲り受けたのです。父はこれをいたく大切にしていて、俺に渡した途端老け込んでしまいました」 「そうでしょうね」 「ええ。これは時計ですから」 「ご尤もです」 時計を見つめたまま、僕は再三頷きを返す。合わない眼鏡が鼻先にずり落ちる感覚に、指を添えて直す。 「壊れた、というのは?」 「ええ。ネジを巻いても動かなくなってしまいました。毎日巻いていたのですが、この通りです」 そう言って笑い、美丈夫は眉を下げた。 「俺はこの時計に拘りはありませんが…父が老け込み、命さえ取られたのはこの時計の所為なので。愛憎とも申しましょうか」 「ジャンクとして持っておくのはいけませんか?」 横から顔を出したのは、アルバイトの女学生だ。きりりと結んだ古風なおさげ髪を揺らして、客人へ小首をかしげる。青年は笑顔で首を振った。 「考えました。が…毎日巻いていたネジを、もう巻かなくていいというのは落ち着かないのです。針の音も聞こえないですし…流行りのルーティンとかいうやつですか」 「ああ!モーニングルーティンですか?優雅でいいですねぇ」 手を打って喜ぶ新人に、僕はひそかに眉を寄せる。きゃいきゃい落ち着きのない、まだ少女と言って差し支えない彼女に振り回されるのは、まだ慣れない。 ルーティン。その言葉が流行ったのは少し前だ。けれど青年にとって、そんなことはどうでもいいのだろう。僕はようやく時計から目を上げ、青年の全身へ視線を走らせる。 「こわれたなんてことはありません。何、油を差せばいいことです」 「油、ですか」 僕は目を閉じる。このひとの良さそうな美丈夫を、騙しているような気になる。けれど、きっと彼はわかるだろう。謎掛けの意味を。 「…あなたは、後悔することはありますか。あの時ああすれば、といったような」 青年は唖然とした。薄い唇がちいさく開き、それから、ごくゆっくりと、ごくしずかに、瞬きを一つした。 「よくわかりました。それが油なのですね」 「物わかりの良いお方だ。油を差すか否かはあなたに委ねます」 「ええ。差しましょう。俺は時計と父が大好きでしたから」 「あ、あの…」 客人が去ってからどれほど経っただろうか。驚愕と恐怖を顔に貼り付けたまま商品にはたきをかけていたバイトが、こわごわと切り出した。 「なんだね。…そこ、埃が残っているよ」 「はい、あの…あの時計は、呪いの時計とかそんな感じだったんですか」 「何を言うかね」 僕は片頬で笑う。眼鏡を指先で持ち上げ、嘆息した。新人教育というのは厄介で困る。跡形もなく姿を消した客人のいた場所へ、微笑みを返す。彼はもう、すぐに産まれるだろう。一年も経たない間に。 「あれは、時計じゃないか」 無知な新人学生は、変人を見るような目で小首をかしげた。
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