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03.皇太子と側近
彼―――ロイストゥヒ大公・ルシェールが、『毒花』と呼ばれていたのは、皇太子・アルトゥールも知っていた。
ヴァイゲル帝国を陰から操る暗躍者、影の宰相、魂を奪われるほどの美貌、武芸学問芸術のすべてに通じ、何をやらせても完璧にこなす天才。そして、淫蕩な私生活。そのすべてをひっくるめた綽名が『帝国の甘美なる闇』そして『毒花』というものだった。
年齢は三十六歳。
しかしその輝かしい美貌の前で、年齢など一切意味を持たない。
美、という概念が具現化してそこにあるような、そんな存在であった。
彼が目を伏せただけで、失神して倒れるものもいる。少し目が合っただけで、何もかも喜捨して、彼に仕えたいと思わせるような、圧倒的な存在であるのは、アルトゥールも知っていた。
初めて見たのは、幼いころの晩餐会だった。
物憂げな様子で、退屈という顔をしていたのが印象的だった。周りには、彼にせめてあいさつでもしたいという者たちが、意味ありげな視線を送っていたが、彼は一向に気にした様子はなかったようだった。
晩餐会など参加してもいないような態度でいたが、実際のところ、晩餐会の中心にいたのは、彼だった。
あの存在は、目くばせだけでも、この国を意のままに操ることが出来るだろう。
彼の為に、彼の意の為ならば、彼の望みを叶えるためならば、人を殺めても、身を差し出してもかまわないという存在は、数多くいるはずだった。
幼いころから、興味はあった。
だが、彼に近づく術は思いつきもしなかった。そして、彼の視界に入る方法も、考えられなかった。
しかし、今は違う。
アルトゥールは、机の上に乗った書簡を手に取った。金箔で彩られた美しい封筒には、封蝋が施されている。それは、ロイストゥヒ大公の印章で封印されたもので、美しい文字から、ルシェール自ら筆をとったものであるのは明らかだった。紫色を帯びた黒いインクで書かれた書簡は、アルトゥールを邸へ招待するものだった。
『我が|あばら屋≪あばらや≫に、殿下の足をお運び頂く栄誉を賜ることが出来ますよう』
と締められている。本心ではない美辞だろうが、アルトゥールは構わなかった。
邸へ行く口実が出来た。二人で話す口実が出来た。
実際、アルトゥールは、自らの政敵にもなりかねない、ルシェールを自陣に囲い込む必要があった。それは、アルトゥールが生きていくうえで、最重要ともいえることだ。アルトゥールには、後ろ盾がいない。ここで、ルシェールを味方に引き入れなけばならない。その際、ルシェールの思惑などはどうでもよかった。
実際、ルシェールは、さげすむようなまなざしでアルトゥールを見ていたのだから、アルトゥールには興味もなければ、主としていただくつもりもないだろう。
「殿下、いかがなさいますか? なにか、手土産でも持参したほうが……」
そう申し出たのは、唯一の味方と言って過言でない、セトレクト侯爵令息のタレスだった。セトレクト侯爵家の令嬢とアルトゥールは、婚約者の関係であり、タレスはその兄だった。将来の義兄という間柄なので、アルトゥールが倒れれば一蓮托生でタレスも破滅する。お互い、腹の底までわかりあった中でもあった。
「手土産か」
アルトゥールは思案する。ルシェールは、ありとあらゆるものを手にしているだろう。そういう相手に、なにを持参すれば喜ばれるか。見当もつかなかった。
「喜ばれるようなものは用意できなくとも、あの人が驚く顔を見られれば、愉快かもしれないな」
氷の彫像のような白い美貌。それが、目を見開いて声を上げて驚くことなどあるだろうか。ないような気がしたが、想像したら、面白くなった。
「驚くもの、ですか」
タレスは渋い顔をして、口元を『へ』の字に曲げている。
「ああ、驚くようなものがいいな。何をすれば驚くか……」
「私には、わかりかねます」
「では、ものすごくいやがるようなものは?」
「そちらも見当もつきません。……いっそ小動物でも狩ってご持参なさったら如何です」
もてなしの度合いとしては、最上級のものだ。貴族が、自ら狩った獲物でもてなすというのは、特別に親しくするという意味も含む。自らの家のもの同様に扱うという意味にもとられるだろう。しかし、それを、ルシェールが喜ぶとも思えなかった。
「小動物の死体を持ってきたと、言いがかりをつけられそうだからやめておくよ。しかし、宝石でも何でもないだろうしなあ。あの方がお好きなものはなにかないのかな」
「美少年では?」
噂ではそうだ。だが、実際は、家の命令で遣わされた少年たちだろう。そして、アルトゥールには、差し出すことが出来る美少年も存在しなかった。
「あの方は……、俺を詰まらなさそうな者だと、そういう目でご覧になっていたな」
「無礼なことです」
「事実だから構わないさ。うん、じゃあ、まずは、つまらないものを持って行こうか。珍しくもない茶に珍しくもない酒、そういう品で良い」
「なぜ、ですか?」
「なぜって……そうだなあ、あちらの腹積もりはわからないから、ここは、まず、精いっぱい情報収集して、後で驚かせてやろうと思ってね」
「そういうことなら、我が家も情報収集を進めることにしますよ」
取り繕ったあの美しい顔が。今は、アルトゥールに対して侮蔑の表情を浮かべるあの顔が。驚きの表情を浮かべるのを想像するだけで、アルトゥールは愉快な気持ちになった。
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