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00.或る郵便配達人の困惑
第二王家直轄地のレクルトは古くから温泉が湧く保養の地として高名だった。その源泉に近い山奥、人目を避けるようにして住まう一人の男がいる。
年のころは七十に届くか届かないかというくらいだろうか。
郵便配達人のミサルガは、およそ月に一度の頻度でこの山奥を訪れる。郵便物を届ける為であった。
もともと、皇室が使用していた別邸という、白亜の建物は、手入れこそ行き届いてはいるが古びている。百年以上昔に作られたという話は、先代の郵便配達人から聞いていた。薄紫の紫丁香花と藤の花が咲き乱れる庭は見事だが、見るものといえばこの邸の主のみとなっているはずだった。
訪れるものなどほとんどないだろうこの場所は、甘やかな香りに満たされ、夢のように麗しい場所であったので、ミサルガにとっては、月一度のひそかな楽しみでもあった。
「郵便を配達に参りました」
挨拶をすると、主が出てくる。
淡く色褪せた金髪に、美しい紺碧の瞳をした長身の老人だった。少々、背が曲がって、杖を突いている。その手は深く皺が寄っており、黄金の指輪が付いている。かつては、美貌を誇ったのだろう。整った顔立ちだったが、やはり皺が深い。やや窪んだ眼窩の奥のまなざしは、吸い込まれてしまいそうな深度があった。
「いつものですよ」
と言いながら、書簡を渡す。
差出人は隣国ヴァイゲル帝国のロイストゥヒ大公家であり、封蝋には砂獅の紋が刻まれている。この国においては、第二王家の印章であり、ヴァイゲル帝国に於いては、ロイストゥヒ大公家の印章であった。
ヴァイゲル帝国は隣国で、この国と同様に皇帝を戴く国でもあり、友好関係にあった。先日、皇帝が退位し、新皇帝が即位した折には、第二王家の王女が皇后として嫁している。
「おや」
老人が声を上げる。
「なにかご不備でも?」
問いかけると、老人は美しい眉をひそめた。「いつもは、前大公妃の印章だったが、今日は違うようだ。なにか、ヴァイゲル帝国に変事でもあったろうか」
「帝国の事はわかりませんが」と前置きをしたうえで、「ああそうだ、先日、ヴァイゲル帝国の皇帝陛下が退位されて、新皇帝陛下が即位されましたよ。第二王家のフィセル王女殿下が新皇帝に嫁されて皇后にお立ち遊ばしたとか」と告げる。変事というよりは慶事だが、変わったことと言えばミサルガに思いつくのはその程度だ。
「なるほど、では、当主が代替わりしたのかもしれぬな。少々待ってもらえないか? もし、代替わりしたのであれば、今後の書簡は不要と、返信を書きたい」
ややしわがれてはいたが、張りのある低い声だった。
「ああ、どうぞ。その代わり、少しお庭を散策しても良いですか?」
「好きなように。ここの花たちも、たまには誰かに見てもらいたい事だろう」
老人の指が、封蝋をはがす。一葉、薄い紙が落ちた。書簡に入っていたものだろう。地面に落ちたのをミサルガが拾い上げる。震えるような文字で、一言書かれていた。
『違う未来を、本当は信じていました。ずっと。』
その言葉が、何を意味しているのか、ミサルガにはわからない。だが老人の顔色は、紙のように白くなっていった。
「どう、なさいました?」
恐る恐る問いかけるミサルガの前で、老人は膝から崩れおち、天を仰いで慟哭していた。
いったい何が起きたのかと思い、悪いこととは思いつつ、書簡に視線を走らせる。流麗な文字でつづられていたのは、簡潔な内容だった。これが最後の書簡となること。前大公は薨去されたこと。前皇帝が行方知れずとなっていること。そしてもし、祖国に戻る意思があるならば、可能であることと、前大公の遺産の分与について書かれていた。そしてミサルガが驚いたのはこの一文だった。
『前大公の夫君であられ、当家の二代前の大公であられた貴公のご帰還を心から望んでおります』
「大公……あなたは、ロイストゥヒ大公だったのですか……?」
ミサルガが問いかけると、老人の慟哭が止んだ。
老人は、紺碧の瞳をミサルガに向ける。涙で潤っていたが、美しさは変わらなかった。
老人は薄い唇を開く。
「捨てた名だ。遠い、遠い昔に。叶うことのない約束をかつて交わしたのだ……。美しい星あかりの下、あの時、愚かにも私は、『永遠』に焦がれていた……」
そのまなざしは、ミサルガよりも遥か遠いところを見つめているようだった―――。
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