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「そんな一方的な話はないだろう。ダイナを神都に連れて行く代わりに、毎月一定額の仕送りをすると、クロシュラの方から提案してきたんだ。その言葉を信じ工房拡大の決断をしたばかりだというのに……」
クロシュラがダイナを神都に連れていけば、ユークレースは1人になってしまう。たった1人では神具店を成り立たせることなど不可能だ。
だからユークレースは現在の手狭な工房を改修し、優秀な神具師を1人雇い入れるつもりだった。神具師に払う分の賃金は、クロシュラの給料から仕送りをするとの約束も取り付けていた。国家で1,2を争う高給取りの神都隊部隊長の財力を以てすれば、辺境の村で支払われる賃金など微々たるものなのだから。
しかし今となっては全てが夢の話。ダイナは目頭に力を込めて、溢れようとする涙を押し止めた。
「……ごめんなさい。私が、クロシュラ様の心を引き留められなかったばかりに」
「ダイナが謝る必要はない。しかし……一体どこの娘御だ。クロシュラ様の心を射止めたのは」
「サフィー、とクロシュラ様は呼んでいました。赤茶色の髪の妖艶なお方。ご存じ?」
「サフィー……聞いたことがない。この村の者でないなら、隣村の住人だろうか」
ダイナの住まう村の近くには、同規模の村がいくつか点在する。クロシュラの活動区域はその村全てに及んでいたはずだから、別の村の住人と出会うことは不自然ではない。
ともすればクロシュラは、ダイナとの関係を保ったままサフィーとの逢瀬を重ねていたのかもしれない。ダイナの目の届くことがない隣村で。
想像すれば悔しくて、歯痒くて、視界がかすむ。
「クロシュラ様は、婚約破棄にあたりいくらか金銭を支払うと仰ってくださいました。父上が交渉にあたれば、工房の工事代金程度は負担してくれると思います。だから、お金の心配はしなくていいの。あとは私が、気持ちの整理をつけるだけ……」
ダイナ、と呼ぶ声がする。顔を上げれば、優しい笑みを浮かべる父がいた。
「食事を終えたら、今日はゆっくり休むと良い。今後のことは明日また話そう」
包み込むような父の声音に、ダイナの瞳からは一粒の涙が零れ落ちた。
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